eterna//「続く」で終わる物語...糖度高め腐向けオリジナルBL小説
クォーレの在る場所 2

「電気信号、か……」
「何かおっしゃいましたか?」
「いや、何でもない」

ぽつりと唇から落ちてしまった思考の欠片はデスクの端に追いやり、ハインリヒは止まってしまっていた手を再び動かした。
山のように積まれていた書類の最後の1枚に流れるような動作でサインを刻み、同じ文字の羅列を綴り続けた愛用の万年筆を労わるようにデスクに寝かせる。

「これで最後だな?」
「はい。お疲れさまでした」

己のサインが刻まれた書類の束が回収されていくのを視界の端に入れながら、ハインリヒはデスクチェアに背中を預けた。
長年愛飲している煙草を咥え、紫煙を深く吸い込んでから吐き出す。

そこに隠されたため息を感じ、サインの記入漏れがないか確認をしていたフルアは手を止めて顔を上げた。
一面の窓ガラスを背負い、重厚な黒檀の執務机の主である上司に目をやる。
長い足を優雅に組み、デスクチェアに深く身体を預けている様は威圧的にも見えるのだが、10年以上彼の秘書として付き従ってきたフルアにとっては見慣れた光景だ。

とは言え、やはり圧倒的な存在感は否めない。
傅きたいと無条件で本能を動かすそれは統率者として立つに相応しい威厳を作り、彼が纏う空気は近付き難いものとなる。
加え、不平等を好む神は彼に端整な容姿と同性が羨むほどの体躯を与えた。
こうして、街を見下ろすことのできる最高層階からの景色を背後に上等な煙草を味わいながらゆったりと腰掛ける姿に、絵のようだと何度思っただろうか。
無造作に撫で付けている前髪をくしゃりと掻き揚げるように片手で乱し、紫煙と共に息を吐き出しているその仕草でさえ様になるのだから。

完璧なその存在感故に一層近付き難い印象を人に与えるのだろう、と上司を観察しながら、フルアはシルバーフレームの眼鏡の奥にあるボトルグリーン色の瞳を細めた。

「大分お疲れのようですが、大丈夫ですか?」
「この程度なら、いつものことだろ」

休日がないのはお前もだろうが、と苦笑するハインリヒに、自他共に鉄火面と認めているフルアも思わず苦笑を浮かべた。

「ですが、アル君には寂しい思いをさせてしまっていますね」

とんとん、と書類の束を整え、上司であるハインリヒの執務机に目を向ける。
そこに飾られているフォトフレームはこちらに背を向けているが、中に収められている写真に写る青年の柔らかな笑みは容易に想像できた。

その笑みを僅かでも翳られてしまったかと思うと、心苦しい。
他者など自分にとって交わることのない”物”と同意として見ていたかつての自分ではありえない思考に面映さを感じながら、フルアは指先でブリッジを上げた。

「半休だけで大丈夫なのか、と心配していたぞ。お前のことも」
「私はボスの補佐に過ぎません。ですが、ボスはそろそろ休暇を取って頂いた方がいいですね」
「まぁな。だが、もうしばらくは無理だろ。ほとんどが雑務とは言え、サインは俺の仕事だからな」

常に最前線に立っているわけではないのだから、動き出したプロジェクトにハインリヒが直に関わることはまずないと言っていい。
必要だと判断した場合はそのプロセスに手を貸すこともあるが、最初と最後を押さえ、個々が適する形で動ける環境を作ることにトップの存在意義があるのだから。

だからと言って、仕事が少ないわけではない。
むしろ、統べる者として立つハインリヒの前には常に仕事が山脈を築いている。
全ての業務状況を把握することが義務でもある彼の元には膨大な報告書が届けられ、彼のサインを必要する書類も各部署を回った末に執務室へやって来る。
それらひとつひとつは細かなものだが、代理の利かないものでもあるのだ。

だからこそ、無理をして体調を崩しては元も子もないのである。
休息は必要だ、と脳内のスケジュール帳を開いているフルアを視界の端に入れながら、ハインリヒは短くなった煙草を灰皿に捩じ込んだ。

(とは言え、フルアの言う通りだな。アルに寂しい思いをさせているのは事実だ…)

体重を背もたれに預け、フォトフレームに視線をやる。
ファインダーを覗いている自分に向けられた美しい笑みを湛えている写真の中のアルフレードを見つめ、自身の中に欲求が沸々と生まれてくるのを感じた。

寂しい思いをさせているかもしれない。哀しませているかもしれない。
少しでも喜ばせたい。昨日より多くの笑顔が見たい。声が聞きたい。共に過ごしたい。触れたい、と。

(……まさか、これほどに誰かを想うことが当たり前になるとはな…)

他人の心の機微など、気に掛けたことも考えたこともなかった。
ましてや、ごく自然に誰かを想うなど。

そこでふと、アルフレードの言葉を改めて思い出す。

「…あぁ、なるほどな」
「はい?」
「いや、アルの話しを思い出した」
「先ほどの、電気信号がどうの、と言うお話ですか?」

優秀な秘書は耳聡いものなのか、と妙な関心をしながら、軽く頷く。

「全ての感情は脳が作る電気信号によるものなのか、とな」
「確かに、脳化学ではそのように言われていますが」
「アル曰く、全ての感情がただの電気信号なのは哀しい、んだと」

仄かに花の香りのする蜂蜜が入ったホットミルクを片手に、ぴったりと自分に寄り添うようにソファに腰掛けたアルフレードはそう言い、自身の左胸に手を当てた。

「温かくなったり、痛んだり、苦しくなったりするのは”ここ”なのにね」。
そう、続けながら。

「俺の柄じゃないが、確かにそうだと思ってな」

そうだ。確かに、そうではないか。
ありのままの無防備な自分を見せることのできる唯一無二の絶対的な存在に対して込み上げる全ての感情が、ただの脳内物質によるものだと括ってしまうのは。
彼を想い、そこに生まれる欲求の全てが、際限なく溢れてくる彼に対するこの温かなものが全て、ただの電気信号であるというのは。

弾むのも痛むのも”ここ”なのに、と左胸に手を当てたアルフレードの心意に、ようやく気付く。
あぁ、それは確かに哀しいことだ、と。

「考えたこともありませんでした。アル君らしいですね」
「全くだ。あの子には驚かされてばかりだな」

感情の根源はどこにあるのか。
そんな疑問を抱いたことのある人間の方が少ないだろう、とハインリヒは小さく笑い、フルアが書類の束をクリップで留めるのを見届けてから身体を預けていたデスクチェアから腰を上げた。
腕時計に目をやり、ちょうどいい頃か、と持ち帰り用に分けておいた書類を詰め込んだ鞄を手にする。

「今日はアル君のお迎えがあるんでしたね」
「あぁ。マーケットで買い物をしてから来ると言っていた」
「こちらでお待ちになられないのですか?」
「わざわざ、ここまで上がってこさせるのも可哀想だろ」

最高層階にあるハインリヒの執務室までは、部屋の主である彼と一部の部下、そしてハインリヒからIDカードを渡されているアルフレードだけが使うことを許されている直通のエレベーターがある。
それを使えばエントランスから執務室までの行き来など苦になる距離ではないが、アルフレードに無駄な昇降をさせてしまうことに変わりはない。

ならば、エントランスで彼がやって来るのを待っていればいいだけのことだ。
約束の時間までは15分ほどあるが、待つ対象が彼だと思えばその時間も一種の楽しみとなるのだから、と内心で小さくほくそ笑む。

「つくづく、アル君はすごいですね」
「何だ?突然」
「いいえ。ただ、ボスを待たせることができるのはアル君だけだと思いまして」
「当然だ。俺がアル以外を待つわけがないだろ」

きっぱりと言い切るハインリヒに、フルアは「この人の本質は変わっていない」と改めて実感しながら、乗り込んだCOO専用のエレベーターの降下ボタンを押した。

ディスプレイに数字が映し出され、徐々にカウントダウンされていく。
この急激な昇降に身体が慣れたのはいつ頃だっただろうか、とぼんやり過去を思い起こしながら、その数字を見ていたハインリヒは、ふと自分の気持ちが急いていることに気付き、思わず苦笑を零した。

(諸々理由をつけているが、単純に俺がアルに早く会いたいだけだな)

時差も国境もない世界を相手にしている職業柄、長期の出張も珍しくはない。
数週間という時間を離れて過ごすことなど、少なくはないのだ。
にも関わらず、たった数時間離れていただけだと言うのに、全身の細胞がアルフレードを求めている。
本当に際限がない、と思う。

依存している、と揶揄られたとしても否定できない。
そんな自分に呆れにも似た小さなため息をひとつ落とし、ようやく一桁の数字を映し出したディスプレイから、鞄を持っている己の左手にちらりと視線を向ける。

(……アル、アルフレード)

噛み締めるように心中で彼の名前を紡ぎ、再び視線を上げる。

帰ったら、彼の淹れてくれる蜂蜜ミルクを強請ろう。
甘味を抑えるためにウィスキーが数滴落とされたそれは、世界中でただひとり、自分だけが口にできるものだ。
多忙を極めるスケジュールに追われている自分の身を一心に案じてくれる心優しい最愛の青年に、そう強請って甘えてみるのもいいかもしれない。

(俺の柄ではないが)

それでも、取り留めもなく彼と過ごす時間に想いを馳せる自分自身に、嘲笑と苦笑がない交ぜになったため息が。
落ちる、はずだった。

「……?」

それは、不意に。唐突に。
理由などなく、カウントダウンを続けているディスプレイから自分の意思とは関係なく視線が外れ、背後に移る。
降下していくガラス張りの箱の中からは、いつもと変わらないエントランスの景色を見下ろすことができた。

「………?」
「どうかなさいましたか?」
「……いや…アルに呼ばれたような気が、したんだが…」

早く会いたいと渇望するあまり、ついに幻聴でも聞こえてしまったのだろうか。
訝しげなフルアに、何でもない、と肩を竦めて見せ、改めてディスプレイに視線を戻した。

だが、アルフレードの声が聞こえたような気がしたのは。
彼だけが紡ぐ自分の愛称で呼ばれたような気がしたのは。
幻聴でも気のせいでもなかったとハインリヒが知るのは、それからすぐのこと。
まるで、そのためのカウントダウンをしているかのように、ディスプレイの数字がまたひとつ、静かに降下を告げた。


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