何でもない特別な日にアウグーリ! Parte superiore

「では、明日も同じ時間にお迎えに上がります」
「あぁ」
「おやすみなさいませ」

深夜だと言うのに一分の乱れなくきっちりとスーツを纏う己の秘書に見送られ、ハインリヒは慣れた手つきでマンションのセキュリティーを解除していく。
風除室を抜けてエントランスに入れば、24時間体制で待機しているコンシェルジュに挨拶で迎えられた。
数日前までは、そこに誰かがいるという認識さえ危うかったものだが。
軽く首肯で返し、住人を自宅のある階まで運ぶために待機していたエレベーターに乗り込む。

動き始めた最上階までのカウントを何ともなしに見ながら、ふと思う。
自分は今まで、どうやってこの道程を歩いていたのだろうか、と。

(自宅に帰ることすら、機械的だったのか…)

行き先を告げずとも、同じ道程を走る車に乗る朝。
義務を果たすために同じ椅子に座り、数字を操る日々。
同じ手順でセキュリティーを解除し、昨日と同じ部屋で同じ朝を迎えるために過ごす夜。

夜天の月でさえ昨日とは表情を変えるというのに。
よくぞこれほどに単調で不変な時間を過ごしてきたものだ、と思わずにはいられない。
自嘲に近い苦笑を零せば、それを慰めるように。
いや、むしろ嗤うように、エレベーターが目的階に到着したことを告げる。

(1時30分か…さすがに、もう寝ているだろうな)

無意識のうちに腕時計の針が示す時間を確認し、口の中でため息を吐く。
それが、意識とは乖離した場所で、「声が聴きたかった」「顏が見たかった」ともう1人の自分が零したものだとは気付かずに。

そうして。
つい最近、合鍵があったことを知ったマスターキーで玄関のロックを開錠する。
今まで幾度となく開けては閉めてを繰り返してきたはずのそれを、執務室のドアとは色も形も重さも違うことを改めて実感しながら開ける。
すると、玄関から伸びる長い廊下の照明の明かりに出迎えられた。

(…明かりが点いている…)

誰かにとっては当たり前のことのようで、自分にとっては非日常的なその光景。
数か月前にはありえなかったものが、当たり前のようにそこにあった。
廊下の先にも光の気配を感じ、ハインリヒは1歩を踏み出すのを一瞬躊躇した。

“異質”とも言えるその気配への戸惑いからなのか。
それとも、緊張からなのか。
どちらであれ、無意識の内に鞄を持つ手に力が入る。
だが、いつまでも玄関に突っ立っているわけにもいかず。
呼吸をひとつ落とし、光の気配を追うように、長い廊下を進む。

(絵が変わったか?)

廊下の無機質な白い壁に掛けられた小さな燻金の額縁もまた、やはり“異質”なもので。
しかし、その“異質”に嫌悪感はない。
むしろ、中に飾られた絵が不定期に入れ替えられていることを楽しんでいる己に気付き、内心で苦笑する。

絵に興味があるわけではない。
豪奢なホテルのロビーに飾られた高価な絵画だろうが、美術館に収められた歴史的な名画だろうが、「どうでもいい」と視界にさえ入らないのだから。
だと言うのに、次はどんな絵が飾られるのだろうか、とミュンヘンの夜景を切り取ったその小さな絵を前に思う。

そうして進む廊下の先。
地位に付随する膨大な贈答品が放り込まれている部屋の前を過ぎれば、突き当りに擦りガラスが填め込まれたドアが見えてくる。
そして、光は。
まるで、自分を迎えるためにあるかのように溢れる光は。
廊下とリビングを隔てるそこから零れていた。

「…慣れないな…」

書類が詰め込まれた重たい鞄を左手に、同じように重たい足を進める。
決して、億劫なわけではない。
面倒だとか、嫌悪だとか、後悔など微塵もない。

ただ、慣れないのだ。
誰かが自分を待っているという状況が。
それを悪くないと感じている自分自身が。
何よりも。
自分を待っているその存在を想う己の気持ちの大きさが。

持て余している、というよりは、処理ができないと言った方が正しいだろう。
淡々と目の前にある膨大な文字と数字をロジカルに片付けていくことだけが、自分に求められた職責。
そして、それが生き方でもあった。
人も季節も自分の横を通り過ぎていくだけのもの。
他人を他人だと認識してすらいなかった。
だからこそ。
唐突に、心の最も深い場所に、それこそいつから居たのが分からないほどごく自然に居た青年の存在に、戸惑う。

(何と言うべきなのか)

自分を待つ青年に対して、何と言うべきなのか。
この現実に込み上げてくる感情を、何と言うべきなのか。

リビングへと続くドアを開ければ、煌々とした光が溢れてくる。
誰かがそこにいるのだから、何ら不思議なことではない。
だが、ハインリヒにとっては、そこに誰かがいることがそもそも異質なのだ。
いや、“誰かが”でも、“彼が”いることでもなく。
差し出すことなど知らなかった手を伸ばし、何ものの介在も許しては来なかったテリトリーの中へと自ら招いたことが。
根拠も理由も理屈もなく、呼吸をするよりも自然にそうすることを望み、願い、行動したことが。

微笑とも苦笑ともつかない複雑な表情を浮かべている自覚などあるはずもなく。
彼を知る者が見たならば瞬きも忘れて呆けただろうその表情のまま、ハインリヒはミニバーのカウンターに重たい鞄を置いた。

「起きているわけがないか」

もう何年も前からそうであったように。
ごく自然にそこに居るはずの姿を探している自分に気付き、複雑な表情を浮かべていた口端に苦笑を乗せた。

戸惑いはある。
だが、違和感はないのだ。
愛称を呼び、呼ばれ、手を伸ばせば触れられる距離に居ることが、今までの日常にはなかったものであるというのに。

(…それでも慣れないっていうのは、俺も相当だがな…)

くしゃりと前髪を乱し、ふっと短く息を吐き出す。
国内外を問わず飛び回り、1年の大半を文化も言葉も違う異国で過ごす日々を送ってきたのだから、順応力は高いと自負していた。
だが、そんな経験値は何の意味もないと思い知る。
仕事で環境の変動が大きいことと今のこの状況は意味が全く違うが、それでも。

(…しかし、それもそうか)

そう、仕方のないことだ。
と、頭の中でもう1人の自分が言う。
過去に、自分のテリトリーに入ることを許した存在などおらず、ましてや自ら招き入れた者など1人もいない。
“他人”という括りですらも認識していなかった“他人”を一個として認識し、個を個たるものにする名前を呼ぶ行為を尊く感じたこともなかった。
触れたい、声が聴きたい、笑顔が見たい、と渇望したことなど、あるはずがなく。
ビジネスや利害関係のために、またはただの性欲処理の道具でしかなかった女に、そんな感情を抱いたことなど一度もなかった。
隣で眠ったことも、引き留めたことも、傷付けるかもしれないと躊躇したことも、なかった。

あぁ、自分は肉体的な関係を持った女ですら信頼したことはなかったのか、と今更ながらに思う。
そして同時に。
あの青年が自分にとってどれほどの意味を持った存在なのか、改めて実感する。
いや、突き付けられた、と言うべきかもしれない。

「アルフレード」

無意識に紡いだ音の羅列は、ひどく優しげなもので。
自分が生み出した音だとは信じられないようなもので。
だが、自分らしくない自分を悪くないと思っているのも事実で。
知らず口許に乗せた微苦笑が深くなる。

と、吐息よりも微かな衣擦れの音が耳を掠め、ハインリヒは反射的に視線を巡らせた。
そして、何ともなしに見やったソファ。
その向こう側に、「居る」と確信する。

「アル?ア…」

ソファがあるというのに、ラグの上に直接座り込んで本を読んでいることが多いあの青年のこと。
きっと今もそうしているのかもしれない、とそのソファを覗き込んだ先。
そこには、読みかけの文庫本を片手に持ったまま、ソファの上で器用に丸くなって眠っているアルフレードが居た。

照明の白い光に晒され眠るその姿は、ショーケースの中に飾られた精巧なビスクドールを思わせるには十分で。
一瞬、息を飲む。

(綺麗だ…)

熟練の職人が生み出した、天使を象った美しい人形。
そんな美しいものを慕わしく想う感情が己にもあることをしみじみと実感しながら、ハインリヒは同時に焦燥感に駆られた。

目の前で横たわるこの青年は、本当に人形で。
たまたま魂が宿っていただけで。
もう二度と、目覚めることはないのではないだろうか、と。

「アル…」

無意識の内に伸ばした手は、そこにアルフレードが居ることを確かめるように彼の髪を撫でる。

と、不意に。
蜂蜜を垂らしたかのような金糸の髪と同じ色をした長い睫が、ふるりと震えた。
そうして、ゆっくりと鳶色の瞳が姿が現せば。
完璧なバランスでそれぞれのパーツが配置された端整な容貌だけでは成り立たない、限られた者だけが持つことを許された美しさを纏った人間がそこに息づく。

「…アルフレード、」
「ん、ぅ…?」

指先に触れた吐息に、肩に圧し掛かっていた重たい何かがすっと下りた。
安堵、と言うべき息を吐き出す。

「…んー?あ、れ?はいん?」
「あぁ。こんなところで転寝をしていたら、風邪を引くぞ」
「オレ、寝ちゃっていたんだ…」

丸めていた身体をもぞもぞと動かし、半身を起こすアルフレードの背を左手で支えてやりながら、右手はごく自然な動きで彼の額に触れていた。
まだ眠たそうな顔をじっと見てしまうのも、もはや呼吸と同じレベルの行動だ。

顔色は悪くないだろうか。
熱はないだろうか。
嫌な夢を見ていなかっただろうか。
無理をしてはいないだろうか。

自分でも驚くほど、いっそ神経質なまでに。
全身の感覚と、決して自分を裏切ることはないと信じている勘の全てで、アルフレードの些細な変化や違和を探る。
妙な癖がついてしまったものだ、と内心で苦笑しつつも、己の感覚と勘が「大丈夫だ」と告げることにまたひとつ安堵の息を吐き出す。

「もう夜中だぞ」
「え?うそ…」
「1時を過ぎている」
「わ、本当だ…」

腕時計を見せてやれば、目を丸くして驚くアルフレードに苦笑する。

「起きて待っていようと思ったのに…」
「俺を?」
「うん。いつの間に寝ちゃっていたんだろう」
「待っていてくれるのは嬉しいが、遅いときは待たなくていい。ベッドで寝ろ」
「う、うん」

癖のある毛先の跳ねが元来のものか、そうではないものかを無意識の内に判別できるようになったのはいつからだったか。
覚えようとしたのではなく、気付いたときにはもう自然と細胞に刻まれていた。
寝癖がついてしまった金糸の柔らかな毛先を梳き、その流れで丸い頭をぽんぽんと撫でる。

「シャワーを浴びてくるから、ベッドに行っていろ。身体を冷やす」
「……」
「アル?どこか具合でも悪いのか?」
「え、あ、ううん。大丈夫、何ともないよ」

じっと見上げてくるアルフレードの視線に首を傾げる。
光の含有量で澄んだ琥珀にもなる鳶色の瞳の中には、解いたネクタイを首から下げたままの姿の自分が映っている。
ジャケットを脱ぐのも忘れ、腰を屈めてアルフレードの視線に合わせた。

「何ともないわけがないだろうが。どうした?」
「えっと…あ、あの、ね、」
「あぁ、何だ?」

急かさないように、それ以上は言葉を続けることなく、じっと続きを待つ。
これが以前の自分であれば、伝えたいことがあるのならば明瞭で明確な態度と言葉で示せ、と恫喝していただろう。

いや、今も本質が変わったわけではない。
目の前にいるのが彼だから。
アルフレードだからこそ、彼が紡ぐ言葉のひとつひとつを受け止めるように待っている。
待ちたい、とさえ思っている。

(今までそんな存在は1人も居なかった。必要ともしていなかったというのに…)

異質な存在。
非日常的な状況。

だが、それを自然と許容し、手離せないと自覚している。
それでも、慣れない、と戸惑いと躊躇を捨てきれずにいる自分に内心で苦笑を落とした。

(つくづく、厄介な感情だ)

そう口の中で呟いていると、徐にアルフレードがソファから腰を上げた。
その動きを目で追ってしまうのもまた、無意識のこと。

「アル?」
「ちょっと待っていてね」

ぱたぱたとリビングに置かれているチェストに向かっていったアルフレードの背中を視線で追う。
ぴょんと跳ねた後ろ髪の寝癖に小さく苦笑し、先程まで彼が転寝をしていたソファに腰を下ろした。
そのソファが身体に馴染まないのは、それが安価なものだからではなく。
そこで寛ぐことを知らなかったからだろう。

今までは、ミニバーで酒を煽っていたか。
あるいは、書斎で持ち帰った仕事を片付けていたか。
少なくとも、自宅でリラックスする、という選択肢はなかった。
気負い、意識的に神経を張り詰めていたわけではなく。
その選択肢を持たなかったから。

「この部屋は、こんなにも明るかっただろうか…」

馴染まないながらも、疲れた身体を受け止めてくれるソファに体重を預けて部屋を見回す。
部屋の隅には、昨日までなかった観葉植物。
ローテーブルの上には、綺麗に掃除された灰皿。
バルコニーへと続く大きな窓を隠すカーテンは、いつの間にか秋らしい色柄のものに。
ダイニングテーブルの上にある果物は、朝食に出されるものだろうか。

寝るための場所でしかなかった無機質な空間。
そこに、たった1人の青年の存在が在るというだけで。
これほどまでに変わるものなのか、と知らず口許が緩んだ。


Prossimo


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