誰がためのモラーレ 1

何かとてつもなく深刻な事件や事故でもあったのか。
尋常ではない真剣さで新聞の一面と向き合っているハインリヒのその姿に、誰もが声を掛けるのを憚っただろう。
彼の秘書として長年付き従ってきたフルアや護衛のグラースでさえも、迂闊に近付くことを躊躇しただろうほどに。

「ハイン、コーヒー淹れたよー」

いや、ただひとり。
アルフレードだけは違った。
両手に淹れたてのコーヒーを注いだカップを持ち、冷たい空気を纏うその背中に何の警戒心もなくとことこと歩み寄る。

「ハイン?」

普段は他者の気配に聡い男だというのに。
彼のテリトリーの中に難なく踏み入ったアルフレードは、自分が傍に来たことに気付いていない彼の様子に首を傾げ、ひょいっとその横顔を覗き込んだ。

(珍しい…)

余程、神経をそちらに集中させなければいけない大事に取り組んでいるような横顔を見つめ、アルフレードはそっと苦笑を落とす。
精悍な容貌、すっと通った鼻梁、存外に長い睫、薄い唇。
そして、深い海の色を宿した瞳。
そこに甘さは微塵もなく、怜悧な空気が彼のテリトリーを守る壁になっている。

近付く者に牙を剥く獰猛な獣の気配を感じながら、アルフレードは両手に持っていたカップをローテーブルの上に置いた。
その拍子に、コトンと陶器がガラス製のテーブル面とぶつかる音がしたが、それでも彼は気付かない。
口許に苦笑を浮かべたまま、アルフレードはソファに腰掛けて新聞と向き合っているハインリヒの足元に。
毛足の長い絨毯の上に、ぺたんと腰を下ろす。

(…あ、眉間の皺が1本増えた)

ここに彼の秘書と護衛がいたならば、触らぬ神に祟りなしとでも言わんばかりにすかさず距離を取っただろう。
端正な顔立ちはそれだけで十分人と惹きつける魅力を放つが、それと同等の、あるいはそれ以上の、人を拒む威圧感がある。
そこに苛立ちを滲ませれば尚のこと。

だが、絨毯の上に座り込んだアルフレードは暢気にハインリヒを見上げる。

(いかにも、不機嫌ですっていう顔)

彼の部下の人たちは逃げていくだろうなぁ、と口の中で呟き、そっとハインリヒとの距離を詰める。
視界に入っているだろうに、まだ自分の存在を認識していない彼に何度目かの苦笑を落としながら真下から呼びかけた。

「ハイン」

周りの音も聞こえないほど全神経を何かに集中させているのか。
それとも。

「ハイン、ハイン、ハイン」
「……」
「ハーイン、ハインリヒー…?」

周りの音が聞こえなくなるほど真剣に考え事をしているのなら、邪魔をしてはいけないと咎められるのは当然だ。
だが、ここには咎める人間はいない。
そもそも、咎められることはしていないと確信のあるアルフレードは、ハインリヒの膝をぽんぽんと叩いた。

「ハイン」
「……アル?」

触れられたことでようやく反応を返したハインリヒにそっと内心で安堵し、アルフレードは頬を膨らませて見せた。

「どうした?」
「どうした、じゃないよ。オレ、何度もハインのこと呼んだんだよ」
「…悪い、気が付かなかった」

気が付かないはずがない距離で呼んでいたことはあえて言わずに。
悪かった、と微苦笑するハインリヒの膝の上に片腕を乗せる。
飼い主によく懐いている仔犬が甘えるように下から見上げれば、大きな掌でくしゃりと髪を撫でられる。
その手の指先に頬を擽られ、思わず鳶色の瞳を細めると、ハインリヒもまた口許を緩めた。

愛しい。可愛い。
そう饒舌に告げてくるブラックサファイア色の双眸に見下ろされ、アルフレードは彼の膝に乗せた己の片腕の上にこてんと頭を乗せる。
唇よりも遥かに多くの言葉を操る器用な彼の瞳。
先ほどまで新聞の一面と向き合っていた怜悧なものではなく、ひどく穏やかで優しげなそれ。
彼を守るように他者の介入を阻んでいた威圧的な空気の壁も眉間の皺も、消えている。
冷静で獰猛で冷酷な統率者から柔和で穏やかで優しい人の顔になったハインリヒに、アルフレードはふにゃりと微笑みを向けた。

自分だけが見ることを許されている彼の表情に、愛しいと思わずにはいられない。
込み上げてくる愛しさが、溢れそうになる。

「…アル、」
「うん?」
「お前…」
「なぁに?」
「ったく、お前は…また、そういう…可愛い顔をする…」

根が素直だからなのか。
それとも、愛に忠実な国に生まれ育った血がそうさせるのか。
ありったけの幸福を抱きしめているかのように微笑まないでくれ、と内心で呟きながら、ハインリヒは額に手を当てて天井を仰いだ。

しかし、アルフレードのその微笑みは瞼の裏にしっかりと焼き付いてしまい、目を逸らすことなどできない。
勘弁してくれ、と懇願に近いため息を落とせば、幼子が構ってほしくて母親の裾を引っ張るようにくいくいっとシャツの裾を引かれる。
視線を下に戻せば、上等な琥珀に似ている澄んだ鳶色の瞳とそれが交わる。
思わず魅入ってしまいそうになりながら、「どうした」と視線で問えば、熟れた苺のように赤い彼の唇が開かれた。

「お仕事に関係する記事があったの?」
「記事?」
「だって、すっごく真剣な顔で新聞を見ていたよ」

悪戯を思いついた無邪気な幼子のような顔をするアルフレードに、ハインリヒは開いて手に持ったままだった新聞に視線を移した。
そして、そこではたと気付く。

「…………」

しばし、新聞と見つめ合う。
その視界の端に、声に出さないよう堪えながら肩を震わせて笑っているアルフレードの姿が入り、ハインリヒは無言で新聞を反転させた。
上下逆さになっていたそれを、正しい向きに。

「……アル」
「な、なぁに?」
「涙目になっているぞ」
「だ、だって…ふふ、ハインが…」

バツが悪そうに視線を彷徨わせ、新聞を畳むハインリヒにアルフレードはくすくすと堪えきれなかった笑いを零した。

「ハインが新聞を逆さに持って、ぼーっとしているんだもん。ふふ、可愛いのはハインの方だよ」
「……」

とてつもなく重大な問題に直面しているかのように真剣な眼差しで眉間に皺を寄せ、怜悧な空気を纏ったその姿には誰もが近付くことを躊躇しただろう。
たとえ仕事とは全く関係のない旅行雑誌を開いていようが、新聞を逆さに持っていようが、確かにそうさせるだけの空気を纏っていた。
だが、たとえ手に持っていたのが仕事の重要書類だろうが、経済の情報誌だろうが、自分は彼のことならば見誤らないという自信がアルフレードにはあった。
彼が真剣に考え事をしているのか、そうではないのか。
それが分からないほど。
感情の起伏が少ない彼の些細な変化や心の機微を見逃すほど、彼に対する自分の想いは浅くない、と思う。

気まずそうに視線を逸らしているハインリヒに小さく笑い、アルフレードはくいくいっと再度シャツの裾を引く。

「おいで、ハイン。お昼寝しよう」
「アル…」
「眉間に皺を寄せてまで眠いのを我慢することないのに」

苦笑交じりにそう言うアルフレードに、ハインリヒは一瞬瞠目した。
そして同時に、敵わないな、とつくづく思う。

長年自分に付き従ってきた部下でさえもいまだ、あなたの表情は読めない、何を考えているのか分からない、と首を傾げるというのに。
自分が彼に対してそうであるように、恐らく彼もまた。
泣き声だけで我が子が何を訴えているのか分かる母親のように、考えるまでもなく、どこか本能的に。
“勘”という一言では括れないほど確乎たる何かを持って、心と呼ばれるものの最も深い位置で感じ取っているのだろう。
それこそ、心の一部が繋がっているかのように。

「さっきのハインをフルアさんたちが見たら、怖がって絶対に近付かなかっただろうなぁっていう顔をしていたよ」
「そんなに不機嫌そうだったか?」
「うん、空気が冷たかった」
「にも関わらず、そうではないとよく分かったな」
「それはもちろん、ハインのことですから」

早くおいで、と言うかのように裾を引かれ、ハインリヒは観念したようにソファに別れを告げて毛足の長い絨毯の上に腰を下ろした。

「帰って来たの夜中だったんだから、もう少し寝ていればよかったのに」
「アルと過ごせる時間が減るのはもったいないだろうが」

ようやく勝ち取った休暇なのだから、と付け加えるハインリヒに苦笑で返し、アルフレードは自分の膝をぽんぽんと叩いた。
それが何を意味する仕草か質す必要のある関係ではない。
ソファを背もたれ代わりに座るアルフレードのそこに頭を預け、ハインリヒは絨毯の上に横になった。
柔軟剤の爽やかな香りにシャンプーでもボディーソープでもない彼が持つ甘い香りが混じり、鼻腔を擽る。

「これなら、一緒に過ごせるでしょう?」
「アルの顔が見られない」
「それなら、夢の中に逢いに行ってあげる」

慈しむように、労わるように、細い指が髪を梳く。
額に落ちたそれをそっと払い、そうして、聞き分けの悪い幼子を窘めるかのようにそこに唇が落とされた。

アルフレードの体温、香り、鼓動。
伝わってくるそのどれもが、身体だけではなく、乾いた細胞ひとつひとつに沁み込んでいく。

「少し顔色が悪いよ。ずっとお仕事頑張っていたんだから、今日はゆっくり休もう」
「これ以上お前をひとりにしたくはないんだが…」
「ひとりじゃないよ。オレは、こうしているだけですごく幸せ」

あなたの無防備な姿をこうして見ることができるのは、オレだけの特権なんだから。
そう続けたアルフレードに、ハインリヒは内心で白旗を掲げた。
甘え方をようやく覚えたばかりだというのに。
この青年は自分を甘やかすことは随分と上手いのだから、逆らえるはずがない。

「お喋りの続きは夢の中で、ね?」
「迷子になるなよ」
「大丈夫。ちゃんと逢いに行くよ」

触れるだけの優しい口付けを唇に落とされ、ハインリヒは与えられる温もりに身を委ねた。
目を背け、耳を塞ぐことで無意識の内に知覚することを避けていた疲労の塊が存在を主張し始める。
力を抜いた身体が重たく感じるのは、気のせいではないだろう。

だが、同時に軽くなった気もした。
背負ったものの重さは変わらない。
身体の底に沈んでいる疲労の塊はひどく重たい。
しかし、確かに。
両肩に圧し掛かっていたものが、軽くなっていく気がした。

無意識の内に張りつめていた神経が緩み、獰猛さを主張し続けていた獣が噛み殺し続けていた欠伸を生かす。
責任も覚悟も。
そこに付随する重責も、何ひとつ変わらないというのに。
春の陽だまりによく似た優しい温もりに包み込まれ、自然と瞼が下りていく。

(まるで、ラファエルの翼に抱擁されているかのようだ…)

人間に癒しを与えるという天使の純白の翼。
それに抱きしめられているようだ、と内心で呟き、そう呟いた自分自身に思わず苦笑する。
随分とロマンチシズムに傾向した思考になったものだ、と。
そして何よりも、それを悪くないと思っていることに。

(与えているつもりで、俺は与えられてばかりだな)

気を抜くことが許されない、まさに弱肉強食の世界で生きてきた。
いや、むしろ野性の獣たちの方が余程正しい倫理を貫いているだろう。
不当は金で正当に成り変わり、悪は権力で正義になる。
そんな酷薄な世界で生きている。
この喉元に喰らいつく瞬間を今か今かと狙っている者たちが身を潜ませているというのに、気を抜けるはずがない。

そうして、いつの頃からか。
極限まで張りつめさせた神経を緩める方法を忘れ、心は悲鳴を上げることを放棄した。
安らぎを求める欲求など、とうに枯渇していた。

それが、今。
身体から力が抜け、神経が凪いでいくのを感じる。
あぁ、自分は疲弊していたのか、と実感している。

「おやすみ、オレの最愛の人」

甘い声音が、耳でも脳でもなく、身体の最深部に直に沁み込んでいく。
彼は今、瞼の裏に焼き付いているそれと同じものを。
日向のように穏やかで優しいあの微笑みを、浮かべているだろう。
それを見たい、と思うが、重たい瞼を押し上げることはひどく億劫で。

「…夢の、中で」
「うん。夢の中で逢おう」

身体を深く繋いでいるわけではないというのに。
触れ合うだけの拙い口付けに、これ以上にないほどの充足感が込み上げてくる。

紛れもなく、これを“幸福”と呼ぶのだ、と。
夢の中で告げようと、2人はそっとほくそ笑んだ。


Prossimo


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