誰がためのモラーレ 3

一体、何を目的としているのか。
高級感を演出するためのインテリアなのか。
それとも、住人間のコミュニケーションを図るためのものなのか。

(憩いの場…なわけがないか)

住人を目的の階まで直通で運ぶエレベーターは、つまり、他の住人との遭遇を避けるためのものだ。
そんなものを必要とする住人たちが、この共有スペースに集まって談話する姿など想像もできない。
これはもはや、ホテルのロビーにあるそれのように、空間を演出するためのインテリアなのだろう。
エントランスホールに置かれているソファに身体を預けていたアルフレードは、そう結論付けた。

そして、徐に視線を玄関に向ける。
侵入者を拒む分厚いガラス扉に阻まれたその向こう側。
マンションと言うよりはホテルのようだと思いながら、煌々と明るい車寄せを見つめる。

(そろそろかな?)

そう思った矢先。
アルフレードの視界に、車寄せの照明とは別の明かりが入り込んだ。
小さなそれは徐々に近付き、やがて、明かりの正体が車寄せに滑り込んでくる。
見慣れた黒塗りの高級車が静かに停まり、アルフレードはぱっとソファから立ち上がった。
そして、そのまま軽い足取りで風除室の自動ドアを抜け、車寄せまで駆け出る。

だが、その足は。
一切の隙なくスーツを纏った男が車から降り立った場所から数メートル手前で、ぴたりと止まった。

「……ハイ、ン?」

発した声は、微かに掠れた。
それは、違和感のせいか。
あるいは、目には見えない障壁を感じたせいか。
決して気のせいではない感覚を肌に感じながら、それでも、止まってしまった足をそろりと1歩踏み出す。

ハインリヒとの距離が徐々に縮まり、助手席から降りてきたフルアから鞄を受け取っていた彼の視線が自分に向けられる。
ブラックサファイア色の双眸と、視線が交わった。
その瞬間。
アルフレードは己の脳が指令を出すよりも早く、反射的に彼に駆け寄っていた。

「ハイン」

そのメールを受け取ったのは、15分前のこと。
文面は、「パーティーで大変お疲れになられたご様子なので、エントランスまでお迎えに来ていただけますか」という簡潔なものだった。

彼の秘書であるフルアからメールが送られてくることは決して珍しくはない。
だが、その内容は珍しいものだった。
時刻はすでに深夜に近く、自分のことになるといささか過保護な彼が「階下に呼べ」と命じるはずもなく。
もしも彼が願ったことであれば、彼が自ら連絡をするはずで。
しかし、彼からの連絡はない。
となれば、秘書の独断ということになる。
それ自体も珍しいことではないが、エントランスまで降りて来てほしいと請われたのは初めてだ。

階下に向かうエレベーターの中で、珍しいと思うと同時に去来したのは。
不安と危惧。
もしや何かあったのではと胸が騒ぎだし、そして、今も。

「……」

彼の勘は、彼自身を決して裏切らない。
忠実なそれにいつだって驚かされてきたが、どうやら自分の勘も自分を裏切ることはないようだ、と思う。

「…ハイン、」

駆け寄ってきた自分に向かって頭を下げたフルアの顔が、常ではありえない緊張の色に強張っていることに気付く。
ちらりと運転席に視線を落とせば、同じように頭を下げてきたグラースの顔色が青ざめているのがはっきりと見て取れた。

いつだったか、パーティー会場で兇手に襲われたハインリヒが腕を切りつけられたことがあった。
まさか、またあのときのようなことがあったのでは、と張り詰めた緊張感の中にいる2人を見てしまう。
だが、それならばそうと自分に伝えられるはず。

「ハイン、どうし…」

たの、と続けるつもりだった言葉は。
紡がれる前に、飲み込まれた。
妙な緊張を纏っている2人からハインリヒに視線を戻したアルフレードは、自分を見つめる彼の双眸の中に彼にはあまりにも不釣り合いな色を見つけてしまったから。

「アル、ただいま」
「…え、あ、うん…お帰りなさい」
「そんな薄着で…身体を冷やすぞ」
「…う、うん、大丈夫、だよ…」

濃い煙草の匂いが鼻腔を掠め、次いで頬に指先が触れる。
まるで壊れ物にでも触れているかのような優しい手つきに、アルフレードは彼のそれに己の掌を重ねた。

じっと彼のブラックサファイアを見つめ、そして。
徐に。
確信を持って、唇を開く。

「哀しいことがあったの?」

問いかけの形でありながら、どこか確乎たる自信を持ったアルフレードのその一言にハインリヒは一瞬瞠目した。
いや、フルアもグラースも、ポーカーフェイスなど忘れて目を瞠った。

「アル…」
「苦しくて、痛そうだよ。哀しいことがあったんだね」
「……」

はっきりと言い切るアルフレードに、ハインリヒは何と返すべきなのか言葉を見失った。
フルアとグラースもまた、呆然と目の前の光景を見つめる。

(ボスの空気が…変わった……)

肌を刺すような冷たい空気が、すっと音もなく霧散していく。
自分たちの神経と本能を緊張に追いやっていた獰猛な獣の怒りが、目に見えて鎮まっていったのだ。
いや、鎮まるというよりは、質が変わったと言うべきか。

彼の中で煮えたぎっていた怒りは、今も確かにそこにある。
だが、別のものが。
怒りの中に混じっていた別の感情が、はっきりと姿を現したのだ。
ハインリヒ自身でさえも名前が分からずに持て余していた、深い感情が。
アルフレードに正しい名前を与えられ、曖昧だった境界線が明確になっていく。

(“怒り”…そして…)

他者の介入を許さなかった男のテリトリーに、軽々と踏み入る青年を見やる。

青年と同じようにそこに入り込もうとする者は過去にも居た。
今も居る。
だが、彼はいつだってそれを一切許さない。
青年は、唯一の例外なのだ。

思慮深く、踏んではいけない場所を理解し、触れてはいけない場所からは目を逸らす。
しかし、それ以外の場所には。
的確に許容範囲を見極め、踏み込むことを許された場所には遠慮なく入っていく。
テリトリーの中に敷き詰められた荊を踏み、傷付くことを恐れないかのように裸足で。
1歩、また1歩と。
何の躊躇もなく男に手を伸ばす青年に、フルアはそっと緊張感を解いた。

「大丈夫だよ。もう大丈夫」
「…アル…」
「温かい飲み物を淹れてあげるね。何がいい?それとも、先にお風呂に入る?」
「…飲み物も風呂も後でいい」
「うん?それじゃぁ、少し休んでからにしようか」

丁寧に整えられていた黒髪をくしゃりと乱してやり、踵を浮かせて額にかかったそれに唇を寄せる。

人目のある場所で。
ましてや、自分たちにとって身近な者がいる前で、アルフレードがそんな行動に出ることはまずない。
だが、羞恥に微かに頬を朱に染めながらも、労わるような眼差しを向けてくるアルフレードに、ハインリヒは堪らずその細い腰を抱き寄せた。

「アル…」
「うん。あ、フルアさん」
「はい、何でしょうか」
「明日はいつも通りでいいですか?後、急ぎのお仕事は…」
「本日はお持ち帰りいただく仕事はありません。明日も平常通りお迎えに上がります」
「そうですか、分かりました。今日もありがとうございました」

グラースさんもありがとうございました。
お疲れさまでした、と続けられ、運転席に座ったままのグラースも軽く頭を下げる。
すでに自分たちのことなど視界に入っていないだろう上司にも一応「お疲れさまでした」とだけ声を掛け、フルアは助手席に乗り込んだ。
可愛らしい笑顔で手を振ってくれるアルフレードに微笑で返し、グラースはそれを視界の端に入れながらステアリングを握り直した。

そうして、2人がエントランスに向かって歩き出すのをバックミラーで見送り、グラースはアクセルを踏み込む。
動き出した車内に、しばし沈黙の時が落ちた。

「……」
「……」
「…敵いませんね」

ふと、その沈黙をフルアが破る。
ステアリングを繰りながら、グラースは視線だけを助手席にやった。

「慣れているはずの私たちでさえも畏怖し、緊張するほどの怒りを放ってらしたというのに…アル君はそれに気付きながらも全く動じなかった」

駆け寄ってきた彼の足が一瞬だけ躊躇するかのように止まったのは、尋常ではないハインリヒの空気を感じたからだろう。
しかし、それはほんの一瞬のことで。
迷うことなく彼に駆け寄ったアルフレードが確信を持って紡いだ言葉を、思い出す。

「…“哀しいこと”、ですか…」
「怒っているのか、と聞くなら分かりますけど…あれには驚きました」
「えぇ。あのときのボスは間違いなく怒りを露わにされていた。アル君には向けていませんでしたが、聡明な彼のことですから気付いていたでしょう」
「でも、アルフレード君はボスに、“哀しいことがあったのか”と訊ねた」

敵いませんね、とグラースもまた微苦笑と共に零す。

自分はさも当然かのような顏で大人ぶっていただけだ、と己自身に向けた嘲笑がそこに混じる。
主の右腕という地位にいるだけで。
過去に敬礼を捧げられる立場にいただけで。
自分たちは、30年余りという月日をただ過ごしてきただけだ、と。
大人になり、地位を得た。ただそれだけだ、と思わず哂ってしまう。

「俺は、やっぱり軍に残るべき人間ではなかったんですね」
「グラース?」
「隊長だなんて名乗っていた過去の自分が恥ずかしいですよ」

自分は統率者になれるような器ではなかった、と微苦笑に嘲笑を混ぜるグラースに、フルアは中指で眼鏡のブリッジを上げた。
かつて、陸軍の外人部隊というエリート集団の長を務めていたグラースは、軍部の方針という現実と理想のギャップに苛まれ、随分と長く苦しんだという。
理不尽な命令であれ、従うしかなく。
部下を捨て駒のように扱うことが、当然とされ。
苦しくも、上官には絶対服従という厳しい掟に雁字搦めにされた彼は、「それでも逆らえなかった」と忌々しげに酒を煽りながら呟いたことがあった。

きっと、彼は思い出しているのだろう。
あの頃の苦痛と憤りと怒りを。
そして、そこに確かにあったもう1つの感情に。
それらとは違う、正しい名前を当てはめるために。

「こんな単純なことにも気付けなかったなんて…」
「それは、私も同じです」

グラースがそうであったように、自分もまた。
長い間、現実と理想のギャップに押し潰されそうになっていた。

昔は、それこそ世界の広さも知らぬ幼い頃は、全力を注いで向き合いたい“何か”を探していた。
だが、どれほど必死に探しても、全てを賭けて向き合うに足る“何か”などなく。
いつからか、絶望に近いものを抱えるようになっていた。
しかし、他者の眼に映る自分は、願ったものを何もかも不自由なく容易に手に入れているように見えたようで。
羨望と妬みの視線に晒される中、激しい虚無感に襲われながら淡々と生きてきた。

たとえ目の前に隕石が落ちてこようが、地球外生命体が現れようが、あの頃の自分は一瞥もすることなく通り過ぎていただろう。
それほどに、何事にも無関心だった。
あらゆるものから耳を塞ぎ、目を逸らして。
絶望することにも飽き、希望を見出そうとする感情を殺し続けて。
ただ心臓が動くから呼吸をし続けていたようなものだったのだ。
それほどの。
呼吸することさえ億劫だと思うほどの、あまりにも深い虚無感を抱えていた。

あの頃、何故あの虚無感があれほどに苦しかったのか。
今、ようやくその感情の名前が分かった気がした。

「…本当に、アル君には敵いませんね。まるで、私たちまで慰められたかのようです」
「そうですね。あのたった一言で、過去が軽くなった気がします」
「ボスもそう思っておられるでしょう」

最愛の聖域を踏み躙られたハインリヒの冷たく重たい、深い怒り。
抗えない現実と理想のギャップに苛まれたグラースの、深い憤り。
諦めることでしか堪えられなかった自分が抱いていた、深い虚しさ。

あぁ、そこには確かに。
怒りでも憤りでも虚しさでもない、別の感情が。
“哀しい”、という名前の感情が。
確かに、あったのだ。

「ボスはアル君を謗られたことに対して怒り…」
「そして同時に、アル君が謗られたことを哀しまれていた」
「私たちは大事なことに気付いていませんでしたね」
「ボスが、アルフレード君を愚弄されて哀しまないはずがないのに…」

愛する者を傷付けられ、穢されたことに激怒しない者はいない。
同時に、その事実を哀しまない者も。

「ですが、ボスは大丈夫でしょう。アル君が傍にいるんです」
「あの様子だと、アルフレード君は何があったのか悟っていそうですしね」
「そうですね」
「それにしても、この道中だけで寿命が5年は縮んだ気がします…」
「えぇ、同意します」
「よく事故を起こさなかったな、と自分を褒めてやりたい気分ですよ」

顔色の戻ったグラースが軽快にステアリングを繰るのを横目に、フルアは微苦笑を落とした。
誰彼構わずに当たり散らす人間でないことは十分に理解しているつもりだったが、半ば無理矢理抑え込んだ怒りが爆発するのでは、と危惧していたのだ。
そうなれば止めることなど自分たちに出来るはずもなく、“その時”を覚悟していた。
しかし、その覚悟が無駄になってくれたことに、良かったとようやく肩から力が抜ける。

彼の怒りの炎に焼かれる距離にいた自分たちは、間違いなくアルフレードに救われた。
そして、ハインリヒもまた。

「ところで、グラース」
「何ですか?」
「アル君を侮辱した低脳な愚か者たちに我が社の株主を名乗る資格はありません」
「え?あ、そ、そうですね」
「それなりのお礼を考えておいてください」
「……りょ、了解しました」

そうだ。
ハインリヒの聖域を蹂躙した愚かな男たちも、彼の僅かに残った自制心に命を長らえた。

だが、生き長らえたのは一時のこと。
いずれ、とハインリヒは言った。
ならば、その「いずれ」が来たときに自分たちもそれ相応の報復を。
淡々とした冷たい口調でそう続けたフルアに、グラースの顔から再び血の気が引いていく。

(ボスとフルアさんだけは、敵に回したくない…)

後部座席からの重圧からようやく解放されたかと思えば、次は助手席から立ち上る冷たい炎にじりじりと焼かれる。
報復に私情の八つ当たりを加えても咎めはないだろう、と思いながら、グラースは冷や汗で滑るステアリングをしっかりと握りしめた。


Prossimo


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