誰がためのモラーレ 4

助手席からひしひしと伝わる同僚の冷たい感情にステアリングを握る手に緊張が走り、安全運転安全運転、とグラースが念仏のように内心で呟いていた頃。
この同僚とあの上司だけは敵に回したくない、と己の部下に思われていることなどハインリヒに知る由もなく。
アルフレードの柔らかな金糸の髪を撫でていた彼は、ふとその手を止めた。

「ハイン?」
「……」
「どうしたの?眠たくなってきた?」

コーヒーも紅茶も要らない。
風呂も後でいい。
そう言う自分に、少し休もうか、と寄り添ってきたアルフレードがついっと顔を上げる。
鳶色の瞳に見つめられ、ハインリヒは無意識にその丸みのある頬に手を伸ばした。
白磁器のように滑らかな手触りを楽しむように撫でれば、擽ったそうに瞳が細められる。
まるで、懐いた小動物が見せる表情のようで。
その愛らしさに、口端が緩む。

「…よかった」
「ん?」
「もう哀しくないみたいだね」

するりと伸びてきた細い両腕が首に回され、労わるように後頭部を撫でられる。
6つも年下の。
まだあどけなささえ見せることのある青年の。
それでいて、ひどく大人びた落ち着きを纏うアルフレードの。
我が子に対する母のような優しい手つきに、身体から力が抜けていく。

「アル…」
「うん?なぁに?」

知らず詰めていた息を落とせば、煙と共に忌々しげに吐き出していた苛立ちや嫌悪感がそこに混じる。
だが、車内では行き場もなく溜まっていく一方だったそれが、すっと消えていった。
アルフレードの、腕の中に。
重たく苦いだろうそれを。
彼は口許に微笑を浮かべながら、何てことのないように抱きしめてしまう。

自分自身の醜い感情をも許容することができるこの青年は、他人の悪意や憎悪を真正面から受け止めることのできる強さを持っている。
その懐は、どれほどに深いのだろうか。
自分には到底想像もできないほどの勇気を持って触れることを許したときもそうだ。
欲しい、と訴える自分の醜い欲望を、彼は許容してしまった。
凶器でしかなかった行為に恐怖を感じなかったはずがないというのに。
労わるように微笑み、とても嬉しそうに自分の名前を呼んだ。

この愛しい青年は、本当に際限というものを知らない、とつくづく思う。

「アルフレード…」

よしよし、と幼子をあやすように後頭部を撫で続けるアルフレードに苦笑し、ハインリヒは身体から完全に力を抜いた。
虚勢を張る必要など、もうない。
ポーカーフェイスの仮面の下に、感情を押し隠す必要もない。
限界まで酷使した神経を、ようやく緩ませる。
休息という言葉自体を知らなかった身体が、「疲弊」を訴え始める。
その声に耳を傾け、“自分”を覆い隠す“権力者の仮面”を剥ぎ取るためにゆっくりと息を吐き出す。

そうして、何の躊躇もなく無防備な姿を晒すハインリヒにアルフレードはそっと微笑を深くした。
ぐらりと傾いできたその身体をしっかりと抱きとめ、肩口に顔を埋めてきた彼の髪を梳く。

「ねぇ、ハイン」
「…何だ?」
「オレが聞いてもいいこと?」

微かに息を飲んだ気配を首筋に感じながら、アルフレードは抱きとめたハインリヒの背中をとんとんと軽く叩く。

「少しでも楽になるのなら、話して。オレは全部聞くから」
「……」
「ハインがずっと苦しいのはイヤだよ」

自分に見せたくないものがあることを、知っている。
綺麗事だけでは成り立たないビジネスでの柵や醜い虚飾に彩られた世界でのこと。
そして、その世界の頂点に君臨する自身の姿。
彼の切実な眼差しが、言うのだ。
「聞かないでくれ」、「見ないでくれ」と。
懇願するかのように。
今もまた。

「……」
「うん、それでもいいよ。ハインが話したくないことはオレも聞きたくないから」
「アル…」
「だから、いいよ。話さなくてもいい」

正しいことだけでは、世界は回らない。
正しくないことを正しいことだと信じ、まっさらな正義の眩しさに目を背けなければいけないときもある。
それが間違っていることだと分かりながらも、割り切らなければいけないときもある。

しかし、それを「仕方のないことだ」と言い捨てながらも、苦悩する姿を何度見ただろう。
時に、膨大な数字と文字に埋め尽くされたパソコン画面を見つめながら。
時に、外国の言葉で書かれた書類を見つめながら。
時に、携帯電話を耳に当てながら。
理不尽な、そして、不本意な命令を口にする姿を。
痛みと苦しみを押し隠して、非情な獣であろうとするその姿を。
幾度となく、見てきた。

(この人は、本当はとても優しいから…)

悪い、と呟かれた口を噤むことに対する謝罪の言葉に首を横に振りながら、アルフレードは両腕をしっかりと彼の身体に回した。

何かを堪えるように眉根を寄せる顔を見たくなくて。
優しさを殺す姿を見たくなくて。
それでも、問うこともできずに。
ただ寄り添うことしかできない自分の無力を何度噛み締めたか。

だが、彼はたったそれだけのことにとても安心したように微笑み、温もりを求めてくる。
自分の役目はそういうことなのだ、と気付いたのはいつだったか。
彼にとって自分という存在は、無防備な顔を晒すことのできる場所。
獰猛な獣が、安心して心を休めることのできる唯一の場所。
そうなることが。
そうあろうとすることこそ、自分がすべきことだ、と。
だからこそ、全てをそのまま受け入れる。
凍えた彼の心がこれ以上痛まないように、温もりを分け与える。

(みんな知らないだけで…この人自身も気付いていないだけで、本当はとても優しい人だから)

さらり、と黒炭の髪を梳く。
いつもより濃い煙草の匂いが、髪にまで染み込んでいる。
だが、その苦い匂いがどこか心地良い。

「ハイン」

背中に回されていた腕に、力が入る。
抱きついてくるような仕草に相好を崩し、アルフレードはいつもの倍以上の紫煙に燻された黒髪を抱え込む。

トクン、トクン、と互いの鼓動が重なる。
それが安堵をもたらし、ささくれ立った神経を優しく撫でていく。
アルフレードを堪らなく愛おしいと想う瞬間は、数えきれない。
だが、胸を掻き毟りたくなるほどの歓喜と幸福感に襲われるほどの愛しさを感じるのは、こんな瞬間だ。
優しく穏やかな声音に。
眼差しに。
体温に。
心も身体も抱擁される、この瞬間。

「アル、アルフレード…」
「うん」
「…敵わないな、お前には」
「うん?」
「…お前には教えられることばかりだ」

身体から力を抜いてしまえば、瞼を上げているのも億劫で。
アルフレードに体重を委ね、重たくなった瞼をそっと下ろす。

「愛しさを…腸が煮えくり返るほどの怒りや持て余すほどの激情など、知らなかった」
「うん」
「…哀しいと感じる心など、俺にはないと思っていた」

不要なものだと切り捨ててきたものの中から、一体どれほどのものを彼が拾い上げてくれただろうか。
踏み潰してきたものを、彼はとても大切そうに両手で掬い上げて。
一体、どれほどのものを胸の中に返してくれただろうか。

尽きることなく込み上げてくる、愛情。
聖域を穢されたことに対する、憤怒。
彼に刃を向ける全ての者へ沸き起こる、殺意。
失いたくないという喪失の恐怖に、あらゆる脅威から護るという覚悟。
そして、寂寥。

最愛の者を貶められ、蹂躙され、謗られたことに対する憤怒は激情というに相応しいもので。
飢えた獰猛な獣が唸り声を上げて、鋭い牙を剥いた。
愚かな獲物の喉元に喰らいつき、後悔などする間もなく恐怖と絶望のどん底に突き落としてやったとしても治まらないほどの深い怒りが、ぐつぐつと煮えたぎる音を確かに聞いた。
今も、決して鎮まったわけではない。

(だが、それだけではない感情が…)

アルフレードが纏う甘い香りを吸い込み、細い身体を一層強く抱きしめる。
いや、抱きつくと言うべきか。

「…アル」
「うん?」
「この感情の名前は、“哀しみ”だ」
「…うん、そっか」
「あぁ…“哀しい”。そうだ…俺は、怒りと同時に哀しさを感じた」

聖域を蹂躙されたことに憎悪し、殺意さえ抱いた。
あと一言でも、あの男がアルフレードを貶める言葉を口にしていたら。
自分はきっと、相手の地位も自分の立場も忘れ、牙を突き立てていただろう。
だが、それをしなかったのは。
怒りに荒れ狂う獣の中に僅かに残った自制心が男の地位と自分の立場を説き、理性が働いたからではない。

あのとき、ほんの一瞬。
瞬きの間に脳裏に過った、アルフレードの笑みが獣を宥めたのだ。
怒り、我を忘れて本能のまま敵を貪り食おうとする獰猛な獣を、彼は恐れることなく。
怯むことなく、微笑みを向けて来たのだ。

あぁ、あの微笑みにチリっと胸に走ったのは、怒りの痛みではなく。
哀しみの痛みだったのか、と今更思い知る。

「アル、アルフレード…」
「うん、大丈夫だよ」
「……」
「否定されたのなら、オレが何度でも肯定するよ。だから、ハインだけが哀しまないで。オレは、ハインが肯定してくれるだけでいいから」
「……っ、」
「それだけで、オレの存在意義になるから。ね?」
「アル…」
「いいんだよ。他の人の言葉なんて、オレには真実じゃない」

自分は口を噤んだというのに。
何故、彼はこうも自分が欲しい言葉を容易く紡ぎ、自分に与えてしまえるのか。

そう言えばアルフレードは「その言葉はそのままハインに返すよ」と笑うだろうが。
自分が彼に与えてやれるそれよりも遥かに多いと思う。

「世界中の人がオレを否定したとしても、ハインだけは肯定してくれるでしょう?」
「あぁ、当然だ」
「オレだってそうだよ。声が枯れても、ハインは間違っていないと言い続けるから」

愚図る幼子をあやすように、穏やかに。
傷付いた獣を労わるように、優しく。
そして、愛おしげに。
髪を、背を、撫でられる。

「ありがとう、ハイン」
「?」
「きっと、オレのために哀しんでくれたんでしょう?だから、ありがとう」

鼓動も体温も呼吸すらも溶け合うほど、ぎゅっと強く抱きしめる。
彼のものに比べれば華奢な自分の腕では、彼の逞しい体躯を包み込むことはできないが。
それでも、腕の代わりに、自分の心と温もりで抱擁するように強く。

「…アルフレード」

彼の細い首筋に額を押し当てる。

ただ依存し合うのではなく、見つめ合うだけではなく、支え合うだけでもなく。
与え、与えられ、奪い、奪われ、求め、求められる。
心地の良い、そんな相互関係。
それがたとえ万人に否定されるものだとしても、これほどに誇らしいものはない、と思う。

「アル…」
「うん。もう哀しまなくていいからね」

髪に口付けを落とされた感触に、衝動が込み上げてくる。
尽きることなく、際限なく溢れていく日向のように穏やかな温もり。
それを「イトシサ」と呼ぶのだと教えたアルフレードを掻き抱いて。
そんな必死な自分を優しく抱擁する愛しい両腕に、今はただただ甘えた。


Prossimo


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