誰がためのモラーレ 7

霞のかかった視界の中に、見慣れた広い背中を見つける。
聞こえてくるのは、聞き慣れた声音。

(……遠い…)

半覚醒状態の思考が、のろのろと動き出す。
見慣れた背中を。
聞き慣れた声音を。
肌に馴染んだ気配を。
ひとつひとつ確かめるかのように捉えていく。

そうして、「遠い」と再び内心で呟く。
手を伸ばしても届かない、その距離が。

(いつからオレは、こんなに寂しがり屋になっちゃったんだろう…)

大切な何かがぽっかりと抜け落ちてしまったかのような寂しさが込み上げてくる。

素肌に触れる洗い立てのシーツに溺れながら、今の己の心情を形にしたかのように寂しげに空いているスペースに手を伸ばす。
まだ温もりが残っているそこに触れ、アルフレードは内心で苦笑を落とした。

(きっと、甘えれば甘やかしてくれる人がいるからかな)

口端に薄く微苦笑を乗せ、徐々にクリアになってきた視界の中に映るハインリヒの背中をじっと見つめる。
半覚醒状態にあった脳内には遠く離れていた声も、今ははっきりと聞き取れた。

どこか硬質で、力強いそれは自分の名前が紡がれるときのものとは全く違う声。
冷静で淡々とした、温度のない音。
それは、決して自分には向けられることのない、もう1人の彼のもの。
別の顔をした彼が、目の前に居る。
手が届く距離に居るのに、ひどく遠い場所に。

だが、不思議とそこに寂寥感はなく。
彼であって彼ではなく、彼ではないようで彼であることに違いない姿を前に、アルフレードは眦を下げた。

(オレの愛する、もう1人の彼…。オレは、あなたのことも愛しているんだよ、ハイン)

心の中で呼びかける。
背中を向けている彼には、いや、向き合っていたとしても聞こえるはずのない無音の呼びかけ。
だが、何気なく内心で紡いだその瞬間。
まるで、呼ぶ声が聞こえていたかのような絶妙なタイミングで。
携帯電話を耳に当てたまま、ハインリヒは振り向いた。

ぱちり、と視線が交わる。
しかし、寝ていたはずの自分と目が合ったことにも、いつの間にか起きていた自分に見られていたことにも驚く様子はなく。
極限まで細く絞ったスタンドライトの淡い明かりの中でもはっきりと見て取れるブラックサファイア色の双眸は、すっと細められた。
慈しむように。
そして、愛おしむように。

声音はもう1人の彼のものであるというのに。
饒舌なその瞳だけは、自分のよく知る彼のもので。
伸ばされてきた手に頬を撫でられながら、アルフレードはその手に擦り寄った。

「…いや、それでいい……あぁ、分かった」
「……」
「あぁ、頼む」
「……」
「…アル、」
「電話終わり?」
「あぁ。悪かったな、起こしたか?」
「ううん、目が覚めちゃっただけだよ」
「まだ夜中の3時だ。寝ておけ」

もぞもぞと身じろぐアルフレードの頬を指先で擽り、ハインリヒはシーツに遊ばれている彼に苦笑する。
向けられる眼差しはどこかあどけないと言うのに。
情交の名残を纏い、気だるげな様子が妙に艶めかしい。
シーツの下から晒された彼の素肌を、脱ぎ散らかしたままになっていた自分のシャツで隠す。

思春期の物慣れない子供でもなく、その肢体を見慣れていないわけでもない。
だが、欲望のまま咲かせた赤い花に彩られた白い肌は、理性を揺るがせるのだ。
自分はガキか、と内心で呆れの混じる苦笑を落とし、半身を起こしたアルフレードの色香を放つ肢体を直視しないように視線を泳がせる。

しかし、そんなハインリヒの心情などアルフレードには知る由もなく。
倦怠感が纏わりつく身体を何とか起こし、彼の手に握られたままの携帯電話にちらりと視線をやった。
長期休暇であろうが関係なく、時差も国境もないそれはたとえ真夜中だろうが明け方だろうが、彼を呼ぶ。

「…お仕事?」
「ん?あぁ、今から出るがお前は寝ていろ」
「え、こんな時間に行くの?」
「あぁ、早急に片付けないといけない仕事が入ってな…またお前を1人にするが、許してくれ」
「ううん、それはいいの。それより、少しは寝た?大丈夫?」

帰宅したのが、日付が変わる頃。
それから何度か身体を重ね、アルフレードが疲れ果てて眠りに落ちたのが午前2時を回った頃。
安心しきった様子で擦り寄ってきたアルフレードの寝顔を堪能していたのが、電話が鳴る少し前。
その間、彼の規則正しい寝息につられて微睡んだ気もするが、睡眠と言うにはお粗末なものだろう。

だが、十分な睡眠を取れない日常など珍しくもない。
今でこそ執務室に軟禁状態で書類仕事に追われることが多いが、COOの椅子に座る前は1年の半分以上を海外で過ごし、それこそ寝る暇もなく世界中を駆け回っていたのだ。
日々の激務の疲労が蓄積されていないわけではないが、限界値までにはまだ余裕がある。

睡眠時間が短いことなど、何の問題でもない。
そう言ってしまうことは容易だ。
しかし、その言葉を口にすることはできなかった。
心から自分の身を案じる眼差しを向けられ、胸がチクリと痛む。

「そんな顔をするな、アル。大丈夫だ」
「あまり、無理はしないでね」
「あぁ、アルを哀しませはしない」

向けられる眼差しは、ただただ一心に自分を想うもの。
肩書きも立場もそこにはなく、あらゆるものを剥ぎ落した裸の自分を想うものだ。
自分自身でさえ見失いかけていた“個”を、彼だけは決して見失いはしない。
いつだってただの“個”として自分を見る。

だからこそ、心配をかけることに胸が痛む。
そして同時に、幸福感が込み上げてくる。
たったひとり。
“自分”とその他大勢の他人で成り立つこの世界の中で、たったひとり。
“アルフレード”という存在がどれほど貴重でかけがえのないものか、ハインリヒは改めてひしひしと感じた。

「帰ってきたらアルの膝で昼寝でもさせてもらうか」
「抱き枕になってあげてもいいからね」
「どちらも捨て難い選択肢だな」

くすくすと小さく笑うアルフレードの金糸の髪を梳く。
指の間からするりと流れ落ちたそれを惜しむように見送り、彼の額に唇を落とした。

「行ってくる」
「行ってらっしゃい」

いつもと同じアルフレードの見送りの言葉に、帰るべき場所はここだ、と内心で己に言い聞かせて。
午前3時の空の色によく似た双眸に、昏い光を灯す。
それはまさに、冷酷で獰猛な獣の眸だった。




「それで?」

マホガニーの重厚な執務机の向こう。
椅子に深く腰掛け、長い足を悠然と組んでいるその上司の姿に、フルアは己の体温が1度低くなったのを感じた。
緊張で指先の感覚が鈍くなる。

「同性に惚れ込んで現を抜かしているCOOをリコールする、と?」
「…はい」
「アルのことも嗅ぎ回っていたらしいが?」
「籍を入れたことも疑っていたようです」
「そんな奴がまだいたのか」
「アル君の出自についても探っていたようだと報告がありました」
「大方、両親やアル本人にスキャンダルがあればそこから突けると思ったんだろう」
「恐らくは」
「馬鹿の考えそうなことだ」

口端をくっと上げるシニカルな笑みは酷く冷たいもので、フルアは小さく息を飲んだ。
本能が、危険だと警鐘を鳴らす。
そして、絶対零度の氷を従える獰猛な牙を持った獣がまだ起きていることを悟る。
いや、むしろ。
肌を刺すような冷たく重たい怜悧な空気の質は純度を増し、憤懣や憎悪といった感情が痛いほど伝わってくる。

「言い出したのは、マルクス・バウアーか」
「そのようです」
「はっ、小物らしいやり方だな」

多くの権力者は、実は不自由なものだ。
実質の経営者として君臨しているハインリヒもまた、王でありながら。
いや、王だからこそ、決して自由ではない。
思うが儘に自己の利益だけを求める愚王であったなら、彼はとうの昔にその地位も権力も民によって奪われていただろう。
地位には責任が、権力には覚悟が必要なのだ。
己の身と自由を犠牲にしてでも民の安寧を守る、責任と覚悟が。

そして、それを問い、見定め、真に王として戴くに相応しい人間か見極める権利を明確に与えられているのが、主要株主という存在である。
彼らは発行されている株式の10%以上を保有し、経営方針などに対して決議する権利を持つ。
つまり、人事に意見することも当然の権利として与えられており、それこそ、最高経営責任者をその椅子から引き摺り下ろすこともできるのだ。
彼らは王を生かし、殺す権利を持っていると言っても過言ではない。

しかし、ハインリヒはそれほどの力を有している男が貧困な語彙を並べて喚き散らす様を想像し、嗤った。

「あのパーティー会場で何か吹き込まれたのか。それとも、俺の態度が気に食わなかったのか」
「どちらの可能性も高いかと」
「まぁ、行動の速さだけは認めてやる」

理不尽極まりないが、夜も明けない内に報復を企み、行動を起こしたことは称賛に値する。
1秒後には表情を変えているビジネスの世界でその行動力は強味だろう。
しかし、それを正しく活かせなければ意味はない。
所詮、己の命が風前の灯であったことにも気付かぬ愚かな男だ、と嘲笑を重ねる。

「それで、臨時総会のことは全役員には?」
「通知済みとのことです」
「随分と仕事が早いことだ」
「ボスを孤立させようという魂胆が明白です」
「ヴァルターは嬉々としてやって来るだろうな」
「まず間違いなく」

主要株主のマルクスと同様、成金らしい豪奢な腕時計やスーツで己の権力を誇示する男の名前を忌々しげに吐き捨てる。
社外監査役であるその男の名前に、フルアも微かに眉根を寄せた。

ヴァルター・フィルツ。
己にとって唯一の主であるハインリヒのみならず、彼が心から愛している大切な存在を罵倒し、あまつさえ、無遠慮で浅はかな行動でその青年を傷付けた男の名前だ。

知らなかったとはいえ、その男は他者との接触にいまだ恐怖を感じている彼に手を伸ばし、彼の過去の深い傷を抉った。
忘れられるはずがない。
あの日のことを。
パニックを起こした彼が階段を踏み外したあの瞬間を。
見ていたのだから。
華奢な身体が傾ぎ、大理石の冷たく固い床に叩き付けられようと落ちて行く様を。
己の主が、彼を護ろうとその身を投げ出す様を。
まるで、スローモーションを見ているかのように、自分にとって大切な2人が鈍い音を立てて踊り場に倒れ込んだその様を。
どんな気持ちで見ていたか。
見ていることしかできなかった自分が、どれほど歯痒く、もどかしかったか。

「フィルツ氏があの一件で懲りるとは思いませんでしたが…」
「あぁ、随分と俺を舐めてくれたものだ」

珍しく感情的な表情をするフルアを見やり、ハインリヒも己の中で燃え盛る怒りの炎が一回り大きくなったのを感じた。
彼もまた、鮮明に覚えていた。
いや、身体に残っているのだ。
目の前で最愛の存在を喪うかもしれないという大きな恐怖が、今も全身に染みついている。

結果的には護ることができた。
だが、彼の、アルフレードの心には傷が増えてしまった。
不意に伸ばされてきた手は、過去の苦痛を甦らせるには十分だっただろう。
そして、自分がそうであったように。
アルフレードもまた、自分を庇った己を喪っていたかもしれないという恐怖に襲われた。

あの一件からしばらくの間、彼が無意識的に階段を避けていたのを知っている。
言葉にすることはなかったが、あの鳶色の饒舌な瞳は恐怖と不安を訴えていたのだから。

(二度とアルにあんな顏はさせない)

させて堪るか。
そう内心で己に誓い、ハインリヒは灰皿の上で細い煙を燻らせていた煙草の火を捩じり消した。

「俺はあいつらに警告をした」
「はい、確かに」
「ならば、分かるな?」

あぁ、これは警告でも勧告でもない。
最終宣告だ。

自分に対するものではないと分かっていながら、フルアは抗えない恐怖感に粟立つのを感じた。

(この人の本質は、やはり変わってなどいない)

ハインリヒは、怒鳴り散らすようなことは決してしない。
ミスを犯した者が怒鳴られているときなどは、怒鳴られている側も見ている側も却って安心するほど。
怒りの深度が深ければ深いほど、彼の表面上は凪いでいくのだ。
声を荒げることはしない。
ただ、纏う空気は刃のように冷たくなり、その視線が射殺すかのように鋭利なものになる。

「…すぐに、手筈を整えます」

ハインリヒが鷹揚に軽く顎を引いたのを見届け、フルアは半ば逃げるように執務室を出た。
彼とは長い付き合いだが、あれほどまでに怒りを露わにした姿を見たのは初めてだ、と思う。

(あのときも相当だと思ったが…)

浅はかな男の行動がアルフレードを傷付けたあの一件があった後、ハインリヒは役員が揃う中で警告をした。
イレギュラーを極端に嫌う者たちを否定するのではなく、それを受け入れた上で。
自分が謗られ、自分に刃を向けるのならばそれを受け止めると言い切った上で。
最愛の者を傷付けることだけは決して許さない、と警告をした。
一切の躊躇なく言い切るその姿はいっそ情熱的なまでに真摯で。
そして、愛する存在を傷付けられたことへの深い憤懣を滲ませていた。

だが、今の彼は。
先程まで目の前にいた彼は、そのときの比ではない、と思う。

(聖域に手を出せばどうなるか…分からないから、愚かな人間は愚かなままなのだろう)

恐らくはアルフレードの出自を探り、家柄や彼自身が歩んできた過去を持ち出してハインリヒを陥れる切り札にしようと考えたのだろう。
しかし、その短絡的な考えが男たちの行く先を決定付けた。

男たちがハインリヒだけを非難し、罵倒しただけならば。
あるいは、言葉だけであったならば。
それを受け入れると公言している彼は、怒りさえもしなかっただろう。
自身の言葉のまま、受け入れたはずだ。

だが、あの男たちは踏み入ってはいけない聖域を土足で穢そうとしている。
それを、彼が許すはずがない。

(私たちもまた、許せるはずがない)

最高層階のビルの窓の向こう。
朝陽が夜の気配を包み込んでいくのを視界の端に入れながら、フルアは携帯電話を取り出した。
そして、夜が明け切らない時間だというのに3コール目で普段と変わらない声音で応答した同僚に、淡々と告げる。

「グラース、本日より護衛の任に就いていただきます」

ハインリヒの専任護衛であるグラースに今更、“護衛”の任を与える理由は1つ。
それは電話口の彼も重々理解していることで、顔が見えなくとも彼に緊張感が走ったのを息遣いで感じた。

「頼みましたよ」

グラースが動かなければいけないことにならなければいい、と祈りつつ。
フルアは、執務室へ続く扉を見た。
あの扉に隔てられた向こう側では、聖域を護るためならば何を犠牲にすることも惜しまない獰猛な獣がその鋭い爪を研いでいることだろう。

限りなく冷静で冷酷で残酷な賢い獣の咆哮が慟哭に変わるようなことにならなければいい、と。
いや、そうはさせない、と言うかのように。
フルアは襟を正し、背筋を伸ばした。


Prossimo


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