誰がためのモラーレ 13

「あの子に出逢い、君は…いや、君たちは確かに変わった」

不変なものなどこの世界にはおよそ少ない。
だが、変化とは容易なことではない。
望み、願ったとしても、変わらないこともある。
その事実に絶望し、いつしか変化を求めることさえ煩わしくなり、諦めてしまうこともある。
君たちはそちら側にいた、とケイルは続けた。

「そんな君たちを、あの子は変えた。希望を見つけた君たちは変わることができた」

良い方向へと。
より光ある高みへと。
その先に待ち構えている光の眩しさに怯むことなく、果敢に立ち向かう強さを武器に。
護りたいものを護るために、戦うことを知った。

そうして。
国と民を護るために躊躇なく頭を垂れた王のように。
今、護りたいもののために腰を折った若い王の姿もまた。
凛々しく、勇敢で。

「頭を上げなさい、エアハルト君」

真正面から怯むことなく向けられた双眸に、純粋に美しいと思う。

「君と出会った頃、君の両手には何もなかった」
「……」
「与えられるものも、目の前にあるものでさえ、君は手を伸ばそうとはしなかった」
「……」
「莫大な金や強大な権力を握っていると言うのに、君の手の中は空っぽだった」
「…はい」
「だが、今はその両の掌の中に失えないものがたくさんある」
「はい」

その1つがこれだろう、とケイルに手渡されたものをしばし見つめ、ハインリヒはそっと口許を緩めた。
空を掴むばかりだった両手に、確かな重みを感じながら。

「俺の怒りを、あの子は“哀しみ”だと言った。そんな感情があることを、俺は知らなかった」
「それは君の強みになる。私はそう信じているよ」

同情や憐憫の情は、ときに判断を揺らがせる。
統率者として正しい道を選択し続けなければいけない彼にとって、それは必要のないものだった。
一切の妥協を許さず、一切の甘えを許さず、一切の情けもなく。
淡々と損害を排除してきたからこそ、私情に流されることもなく、彼は莫大な利益を克ち取ってきた。
それは、確かなこと。

切り捨てなければいけないとき、理不尽な命令を口にしなければいけないとき、理想と現実のギャップに堪えなければいけないとき。
感情は、人を弱くする。
統率者として頂点に立つとき、その者は権力を手にすると同時に激痛を背負う。
弱い心では、きっとその痛みに堪えられない。
それも、確かなこと。

しかし、心のない王に誰が膝を折るだろうか。
騎士の流した血と同等の涙を流せない王に、誰が己を捧げるだろうか。

「人の痛みや哀しみが理解できる者は強い。弱さを強さに変えられる」

護りたいものを護れるだけの強さになる。
そう続け、話はこれで終わりだ、と言うかのように微笑んだケイルに。
彼と同様に、どこか安堵にも近い表情を見せる者たちに。
ハインリヒは、再び静かに腰を折った。




「いかがでしたか?」

今度、彼を連れて遊びに来なさい。
好々爺然とした笑みのまま背中に投げかけてきたケイルの言葉に微苦笑しながら廊下に出たハインリヒは、そこで待ち構えていたかのように問いかけてきた声の方へ視線を向けた。

出会ったばかりの頃は、感情が読めないと思ったこともあるボトルグリーンの瞳。
いや、自分と同様に感情が希薄なのだと知ったのはすぐのこと。
その冷たい瞳はどこか投げやりで、自分自身を諦めていた。
しかし、今。
そこに自分を案じる色を見つけ、ハインリヒは微苦笑を重ねた。

「あれだけ騒いでおきながら、呆気ないものだったな」
「では…」
「あぁ。全員一致で、社外監査役は解任だ」

白か黒ではなく、双方を冷静な眼で見、考え、見極めることのできない者は我が社に必要ない。
王のその判断に、逆らう者は誰も居なかった。
力に頷いたのではない。
各々が自らの意思で、頷いたのだ。
王が選んだ道を最初から受け入れていた者は当然のことながら。
疑いや戸惑いを抱いていた者まで。
どこか晴れ晴れとした、言うなれば、誇らしげに頷いたのだ。

ケイルが彼らを諭したのか。
それとも、別のきっかけがあったのか質すことはしなかったが。
恐らく、彼もその要因のひとつなのだろう、といつもように半歩下がった位置を歩くフルアをちらりと見やる。

「では、マルクス・バウアーの処分はいかがいたしますか」
「あいつが他に所有している株を暴落させてやろうかと思ったが、会長に先回りされた」
「は?そのような情報は…」
「俺を解任し、自分は隠居すると言ったらしい」

それはつまり、経営者が同時に不在になるということ。
海外の支社からその子会社まで含めれば、何万人という膨大な人間を束ねてきた者が突然居なくなるということだ。
大量の株式を保有している者にとって、その会社の利益は己の利益に直結する。
つまり、損害も同じく。
統率者を失った組織はそれでも新たな統率者を見つけて歩んでいくだろうが、リスクは最小限に抑えたいと思うのが人間の性。
現状の利益を失いたくないと思う者ならば尚更だ。

「しかし、あの者は…」
「お前、あの会長がただの好々爺だと思っているのか?」
「…どういうことでしょうか」
「どんな手を使ったか知らないが、あいつが現在保有している我が社の株は5%以下だそうだ」

あいつはもう何の権限も発言力も持たない、ただのその他大勢居る株主の中の1人だ。
そう続けたハインリヒに、まさか、とフルアは微かに瞠目した。
経営方針や人事にまで口を出す権利を与えられていた筆頭株主の男から、一体どうやってその権利を奪ったのか。
その座からいかにして引き摺り下ろそうかと思案していた自分たちが、力ずくではそうできないと思い知った理不尽な現実を前に、あの人は一体どうやって。

「さすがは、世界経済を握る男と称されている男だとは思わないか」
「え、えぇ…」
「何か言いたそうだな」

エレベーターに乗り込み、行き先の最上階を示すボタンを押すフルアに問いかける。
眼鏡のブリッジを指で押し上げながら振り返ったフルアに、ハインリヒは内心で苦笑を落とした。

(こいつも随分と人間臭い顔をするようになったな)

心が凍ってしまったことにも気付かずに生きてきたこの男のそれを解かしたのは。
感情など不要なものだと自ら切り捨てて生きてきた者に、これほどの感情を与えたのは。
間違いなく、あの青年なのだろう。
あぁ、やはり彼は日向に似ている、と改めて思う。

「何が気掛かりだ?」
「…報復を、危惧しなければいけないのではないか、と」
「利益を奪われたのだから当然だな」
「ボス、あなたに矛先が向くのならいい。ですが、万が一にもまた…」
「アルを傷付けさせはしない」

絶対に彼を護れる保証はない、と食い下がってくるフルアに、ハインリヒは内心で落としていた苦笑を口端に乗せた。

「策士だな、あの会長は」
「は?」
「マルクスは利益とステータスさえ手の中にあれば満足するような愚かな男だ。会長はそれを分かっていた」
「それで?」
「中東の新興企業の株を握らせたらしい。それも、膨大な利益を生む金の卵のな」

奴は喜び勇んで、中東に邸宅を購入してそのまま移住するらしい。
そう続けながら、シニカルに笑って見せたハインリヒにフルアは背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。
賢く獰猛な獣の気配にゾクリと粟立つ。

「まさかとは思いますが、そのためだけに中東に企業を…?」
「さぁ、どうだろうな」
「愚かな人間は一度手にした利益に目が眩み、欲に溺れる。そしていつか、己の欲に喰われる」
「愚かさに気付けば、生き長らえられるさ」

しれっと言ってのける己の上司に、フルアは改めてこの男が飼う冷酷な獣の獰猛さに畏れた。
肌を切るような鋭利なあの殺意は、今もその胸の中にあるのだろう。
冷静に、そして、確実に獲物の命を奪う殺意。
男は、与えられたものが猶予でも温情でもなく、何よりも冷酷で残酷な断罪だと気付くこともなく。
近い未来、絶望を見ることになるのだろう。
中東のとある新興企業がこの世界から消えるときに。

いつもと変わらない凛と伸ばされた背中を追いながら、上手く吐き出すことができなかった息を飲み込む。
だが、それは苦々しいものではなく。
むしろ、甘く感じた。

(私も大概だな。笑いながら断罪を下す人をこれほどに誇らしく感じるなど)

いや、ただ冷酷で残酷な者にそうは思わない。
たったひとりの存在のために、そこまで獰猛になれる彼だからこそ、そう思うのだ。
愛する者のために戦うことを厭わない男に跪く心地良さ。
彼らを護るために、己の命を賭けたいと渇望できる充足感。

やはり、自分が探していたのは“彼ら”だった。
そんなことを思いながら見つめていた背中が、ふと止まる。
つられるように足を止めれば、ブラックサファイア色の双眸に射抜かれた。
あの昏い炎が、微かに揺らめいているのが見える。

「それで、」
「は、はい?」
「あの探偵はどうした」
「あ、はい。すでにこの国には居ません。金さえ積まれれば汚いこともしていたようですから、恐らく、今後は探偵として生きていくことはできないでしょう」
「そうか」
「詳しいことは後ほどグラースから報告があるかと思いますが…」
「二度とアルの前に現れなければそれでいい」

元諜報部の精鋭軍人だったグラースが果たしてどんな方法を取ったのかは聞かない。
聞く必要がない。
自分の意思を己の意思であるかのように行動しただろうことは想像に容易いのだから。

アルフレードの過去を調べ上げた痕跡も、その結果に残された事実も全て消されているに違いない。
燃やす、などという安直な方法ではない。
跡形もなく。
それこそ、誰の記憶にも残らないように。
国家の存亡に関わる情報を取り扱っていたグラースにとって、その程度のことは顔色ひとつ変えずにやってのけるだろう。

「あの探偵が偽名で情報を管理していたことも考えられますので、しばらくはそちらの可能性も潰していくと」
「そうか」
「私としましてもそれは危惧しておりましたので、グラースにはそちらに専念させます」
「任せる」
「しばらくは私がボスの護衛を兼ねさせていただきます」
「あぁ」
「…よろしかったのですか?」
「何がだ」
「アル君を傷付けた者たちに、ご自身の手で報復されたかったのでは?」

本来ならそれを止める立場にあるフルアの言葉に、ハインリヒは思わずくっと口端を上げた。

私情を見せることなどなかった。
己の意見を必要以上に口にすることもなかった。
ましてや、自分の意を質すことなど。
そんな彼の口から紡がれた私情の言葉に、その手で相応の報復をしたかったのは彼もなのだろう、と思う。

「お前たちに任せたのは俺だ」
「しかし、」
「お前たちが俺の意思を読み違えることはないと分かっていたから任せたんだ」
「ボス…」

確かに、己のこの手でそれ相応の苦痛を味あわせてやりたいと思った。
罪の重さを突き付け、絶望を味あわせてやりたい、と。
しかし。

「それに、アルに言われたら逆らえまい」
「アル君に?」
「傷付けられ、辛かっただろうに。俺の心配ばかりして…」
「アル君は優しい子ですからね」
「あぁ。だから俺は、あの子の願いは全て叶えてやりたいんだ」

微苦笑を浮かべるハインリヒに、フルアもつられるように薄っすらと口端を緩めた。

これ以上、あなたが傷付く必要はない。
言い聞かせるように繰り返し、ハインリヒの手を握り続けていたアルフレードの姿を思い出す。
獲物に食らい付こうとしている獣を窘めるように背中を撫で、行かせない、とでも言うかのように、傍を離れようとしなかった聡明なあの青年のことだ。
ケイルに連れられて社外監査役のヴァルターとマルクスが去った後。
表面上は鎮まっていた彼の瞳の中に、躊躇のない殺意が静かに燃え続けていたことに彼は気付いていたのだろう。

「あいつにとって世界のひとつやふたつ滅ぼすことなど容易かもしれない」と呟かれたダイトの独り言が、彼の傍に居た自分には聞こえていた。
その言葉の中に恐怖を見つけたのは、己もそう感じていたからだろう。
アルフレードには見せまいと隠し続けてきた獰猛な本性に。
それを曝け出すほどの深く静かな怒りに。

(それをたった一言で鎮めてしまったとは…)

アルフレードに、ただただ敬服する。
そして、同時に。
怒り狂う獣を優しく包み込む日向のようなあの青年に涙を流させてしまった事実に、心臓が痛む。

「…ボス、」
「何だ?」
「我々の…」

再び歩き出してしまったハインリヒを何拍か遅れて追い、そのまま執務室に向かう彼の背に再度呼びかける。
ぱたん、と執務室のドアが背後で静かに閉まった。
慌ただしい時間の中で過ごしていた反動か、静寂が耳に痛い。

「……ボス、我々の処罰は」

静寂の中に落ちた重たい声音に、ハインリヒはフルアに背を向けたまま、ジャケットの内ポケットに入れていたものを取り出す。
ケイルから渡された、書状。
いや、返された、と言うべきか。
それを手に、身体ごと振り返る。

「何の処罰だ?」
「我々はアル君を護れませんでした。護衛として、ボスの右腕として失態を犯しました」
「アルは俺を咎めなかった。それは、お前も聞いていたな」
「…はい。ですが、たとえアル君の許しを頂けたとしても、我々は許されてはいけない」

命は無事だった。
だが、心を傷付けられた。
それはときに、死を伴う致命傷にもなる。
何よりも、主を傷付けた。
唯一の主の心を、ひどく傷付けた。
だから、どんな理由があれど、たとえ許されたとしても許されてはいけない。

そう続けるフルアに、ハインリヒは内心で苦笑を落とした。

(見極めなければいけないのは、俺もだな)

グラースはアルフレードの護衛を担いながら、結果として護れなかった。
フルアはあらゆる危惧を想定し、それを事前に排除しなければいけない立場にいながら、結果として危惧を現実にしてしまった。
失態は失態。
そこに甘えは、許されない。

しかし、真に咎められるべきだろうか。
温情ではない。
冷静に、責を問われることが当然だと言う瞳を見つめ返しながら、見極める。
今、自分がすべきことを。

「これを、お前に返しておくようにと会長から預かった」
「……」
「いつの間に辞職願なんて書いていたんだ」
「……COOの椅子に座る者に代わりはいますが、私のボスの代わりはいませんので」
「グラースまで。ったく、誰も彼も同じことを考えやがって」
「……」
「まぁ、俺もお前たちのことを言えないがな」

ふっと口端を緩め、ハインリヒは凭れていた執務机から身体を離した。

「会長と何を話したのか知らないが、随分と熱弁してくれたらしいな」
「……」
「他の役員たちも驚いていた。お前のあんな姿を見るのは初めてだった、と」
「……いえ、あのときは…」
「会長に言われた。あれほど自分を理解し、自分を想ってくれる部下は探しても見つかるものではない、と。いい部下を持ったなと」

自分の右腕として、自分の意思を己の意思として行動できる存在を見つけなさい。
それは、無味乾燥とした世界の中でただ呼吸をしていただけだった頃のこと。
自分のために空けられた玉座の前で、その椅子に座るための資格としてケイルから与えられた唯一の条件だった。

しかし、大してそんな存在に重要性も見い出せず、半ば「誰でもいい」と思っていた。
だが、大学のキャンパスで出会った彼に。
「彼でなければいけない」と感じた自分の勘は、決して間違ってはいなかったと改めて思う。

アルフレードに出逢い、知った。
出会えてよかったと思えるそんな存在が。
誰かに称賛されるためではなく、自分自身が誇れる存在が。
彼だけではなかったことを。
存外に身近にも居たことを、知った。

「フルア」

多くの言葉を必要としない関係。
そこにあるのは、信頼だとか信用だとか、そんな陳腐なものではない。
自分が誤ったときは正しい道へと促し、迷ったときは叱咤し、同じ歩幅で、同じ速度で共に歩いて行ける存在。
半歩後ろを付いてくる彼らに、躊躇なく背中を見せられるのは。
安堵すら感じるのは。
彼らが、大切な存在だから。

だからこそ、伸ばしていた背筋をそっと折る。
そうして。

「ありがとう」

そこに数多の想いを乗せて。
自分たちのためならば盾になることを厭わない大切なこの存在に。
短い感謝の言葉を、紡いだ。


Prossimo


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