誰がためのモラーレ 14

「…ッ、」
「ハイン?」
「いや、何でもない」
「痛むの?」

ひょいっと覗き込んできたアルフレードの自分を案じる表情に苦笑し、くしゃりと彼の柔らかな髪を撫でる。

「コーヒーが沁みただけだ」
「まだ傷口が治っていないの?」
「まぁ、仕方ない。手加減なしで殴ってくれたからな」

口汚く謗る男たちと向き合い、毅然と言葉を返すアルフレードの姿は平静なものに見えた。
だが、やはりあのとき。
彼も冷静ではなかったのだろう。

周囲の変化に聡く、それが身近な者のものであれば、なおさら敏感に気付くというのに。
自分の口端に滲む血に。
そして、それがダイトに殴られた拍子に切れたものだということに。
アルフレードが気付いたのは、フルアたちが去り、ようやく2人きりになったときだった。

張っていた気が緩んだのだろう。
ふにゃりと力の抜けた身体を預けてきた彼が、徐に自分を見上げたときだ。
そこに、殴られた痕を見つけてしまった。
今にも泣きそうな顔で、殴られた自分よりも痛そうに眉を寄せ、労わるように触れてきた彼の仕草を思い出す。
あの手の温もりに、どれほどの愛しさが込み上げて来たか。

「腫れは引いたみたいだけど…明日、先生のところに行く?」
「お前、それは傷口に塩を塗り込まれるだけだぞ…」
「え?」

殴った本人であるダイトのいささか乱暴な治療も思い出し、苦笑する。

「傷口を抉られるということだ」
「そんなことされたら、オレが先生を怒ってあげるよ」
「それは頼もしい限りだが、アルを攫われたら堪らないからな」
「うん?」
「殴られるだけのことをした罰だ、と」
「…ハイン、あのとき先生と何があったの?」
「アルを泣かせただろう?その罰だと言われるだろうな」

どうして殴ったのか、と問い詰めるアルフレードに、彼は最後まで本当のことを言わなかった。
自分が、アルフレードとの出逢いを謝罪したからそれを叱咤するために殴ったのだ、と。
消毒液を含ませたガーゼを強引に押し当ててきた彼の瞳が、あれは聞かなかったことにしてやる、と言っていた。
ならば、と自分もまた真実を飲み込む。

「ハインのせいじゃないのに…」

恐る恐るガーゼに触れてくるアルフレードの手を掴み、引き寄せる。

「あ、ごめんね。痛かった?」
「いや。フルアには、箔が付いていいと言われたぞ」
「でも、すごく痛そうだよ。綺麗な顔に傷を付けて…痕が残ったらどうしよう」
「それはそれで、男振りが増すな」
「ハインは今でも十分かっこいいんだから、そのままでいいよ」

アルフレードからの甘い賛辞に一瞬瞠目し、無自覚に睦言を紡ぐ彼に苦笑する。
敵わないなと内心で呟き、引き寄せた彼の腰に腕を回す。

「アル、」
「うん?なぁに?」
「…あいつらのこと、だが…」

珍しく言い淀むハインリヒをついっと見上げ、アルフレードは首を横に振った。
その反応に瞠目する彼に微笑みかけ、「言わなくてもいいよ」と続ける。

昏い炎を宿していた、ハインリヒの瞳。
明確な殺意と狂気に支配されていた、冷たい瞳。
そこには今、凪いだ冬の夜の海が広がり、穏やかな光を湛えている。
ならば、それでいい、とアルフレードは「いいよ」と再度繰り返す。

「ハインが正しいと思う選択をしてくれたのなら、それでいいよ」
「アル…」
「あの人たちがどうなったのか、ハインが知っているならそれでいい。だって、ハインがもう大丈夫って言うのなら、大丈夫だもん」

だから、言わなくてもいい。
聞かなければいけないことではないから、オレも聞かない。

「ね?」
「アル…」
「いいんだよ。もうハインが哀しむ必要はないんだから」

本当は、分かっている。
気付いている。
彼の判断は、多くの人にとって正しくない、と。
しかし、あの男たちはそれだけのことをした。
この冷静で賢い獣を怒りに狂わせ、哀しみの狂気に支配させるだけのことをした。
あまりにも深い哀しみが生んだ殺意は、きっと、誰にも咎められるものではない。

だからといって、誰かを傷付けていい理由にはならない。
しかし。
それでも、とアルフレードはハインリヒの背中に腕を回した。

「オレだって、ハインを傷付けられたらハインと同じようにするよ。きっと、殺意だって抱く」

いつだったか、己の中にあったそれに気付いた。
気付かなかっただけで、もうずっと以前からそこにあったであろうそれを知り、怖くなった。
冷静に、どこまでも冷静に。
そして、冷酷に、人を憎む心。
白い闇に飲み込まれることが怖ったように、その狂気に自我を侵食されていく感覚は、酷く恐ろしかった。
いや、狂気に身を委ねることに躊躇しようとしなかった自分自身が、何よりも恐ろしかった。

だが、それでもいい、と彼は言った。
何の躊躇も迷いもなく、それでいい、と。

「誰かを恨んだり憎んだりすることを、ハインは普通の、誰もが持つ普通の狂気だって言ってくれたことがあったよね」
「…あぁ」
「オレが誰かを殺したいと思ったとしても、それでもいいって言ってくれた」
「あぁ」
「幾億の命も犠牲にして、神をも殺すって言ってくれた。それは傲慢で甘美な狂気だって」

あぁ、本当に。
それは、ひどく甘美な、狂えるほど想うことのできる存在を見つけたという幸福な狂気。
神々がそうであったからと言って人が人を傷付け、命を奪うことなど決して許されることではない。
許されてはいけない。
誰かを犠牲にして成り立つ幸福が、確かにあったとしても。

だが、それでも。
いっそ、そう思えるほどの愛しさを抱けることは。
そう思えるほどの愛しい存在と出逢い、狂うほど愛し合えたのならば、それはとても幸福なことだ。
多くの人にとって間違っていたとしても、それは自分にとっては正しいことなのだから。

「だから、オレもそうするよ」
「……」
「ハインを傷付けた人を、オレは許さない。目の前で懇願されても、助けてなんてあげない」

聡明で、誰よりも人の心を感じ、誰よりも人の痛みを理解することのできる、優しい青年。
心根の優しい、青年。
そんな彼に、とても酷いことを言わせているのかもしれない。
その言葉に、優しい彼の心は痛んでいるかもしれない。

背中にアルフレードの掌の温もりを感じながら、ハインリヒは心臓が何かに締め付けられる痛みに思わず瞳を閉じた。
それは、この青年と出逢わなければ知らなかったもの。
優しい彼が、己が傷付くことも厭わずに、自分のために紡ぐ言葉の数々に胸が痛む。
歓喜と愛しさで。

どうして、一瞬でも。
彼が自分と出逢わなければ、などと思えたのか。
たとえ、どれほど傷付けたとしても、手離せないと分かり切っているのに。

「哀しかったね。辛かったね。苦しかったね。でも、もう大丈夫だよ」

ぽんぽん、と背中を撫でられ、身体から力が抜けていく。
アルフレードの肩口に委ねるように顔を埋めれば、シャンプーでもボディーソープでもない、彼だけが持つ甘い香りが鼻腔を擽った。

「…怖かっただろう?」
「え?」
「思い出したくないことを、思い出させられた」
「あ、うん…そうだね、怖かった。でも、」

背中に回された腕に力が入り、ぎゅっと抱きしめられる。
幾分も小柄で華奢な彼の細い腕では、抱きつかれる、と表現する方が相応しい体勢だったが。
抱きしめられている、と思う。
これは、抱擁だ。
翼で抱かれるように、温かなものが全身を包む。

「ハインが居てくれたから、大丈夫。怖くても、大丈夫。だって、独りじゃないから」

身体を包み、じんわりと胸の中に広がっていく日向は。
知らなかった、温もりそのもの。
知ろうともしなかった、安寧の場所そのもの。

一度抱いた殺意は、消えない。
狂気は、消えない。
しかし、それを丸ごと許容し、抱擁してくれる腕があるのなら。
あぁ、大丈夫だ、と思う。
根拠も理由もないが、見誤ることはない、と。

「…アル、」
「なぁに?」
「俺は、お前には聞かせられないほど冷酷なことを考える人間だ」
「うん」
「お前を傷付ける奴を許せない」
「うん」
「お前が誰かに傷付けられることを許せない」
「うん」
「お前を護るために、躊躇なく誰かを犠牲にするだろう」
「うん」
「それでも、お前だけは大切にしたい。アル、お前だけは護りたい」

己の全てを賭け、何を犠牲にしても、何を失うことになったとしても、誰かを傷付けたとしても。
この最愛の存在だけは、護りたい。
護るために、戦いたい。
彼を。
そして、自分の存在意味を。
護りたい。

「それなら、オレももう一度覚悟をしないとね」
「覚悟?」
「うん。だって、オレはハインを大切に想っている人たちから、ハインを奪うんだから」

あのとき、彼は何の迷いも躊躇もなく言った。
捨てる、と。
地位も権力も、本当は大切に想っている人たちも。
護りたいものを護るためにそれが正しいのなら、躊躇うことなく全て捨てる、と。

何てことのないような顔で、彼は頂点に君臨している。
膨大な量の仕事を背負い、とてつもない重圧に耐えながらも、平然とした顔で人を導いている。
だが、それが決して彼にとって容易いことではないと知っている。
休息することも、疲弊した心の悲鳴に耳を傾けることも、胸の痛みの正体にも気付けないほど必死に、懸命に歩んできたことを。
地位も名誉も権力も金も手に入れて、それでも、心がひどく飢えていたことにも気付けないほど。
気付いてはいけない、と。
気付いてしまっては、堪えられなくなると分かっていたからこそ無意識に目を逸らし続けてきたことを知っている。
そうして守ってきたものがあることを、知っている。

だからこそ、あのとき。
痛感した。
あぁ、彼にとって自分は、それだけのことをする価値がある存在なのか、と。

肩口に顔を埋めているハインリヒの黒髪を梳き、そっと顔を上げさせる。

「ハインを奪ったら、どこに行こうか。南に行って、小さな島でゆっくり過ごすのもいいね。北は寒いけど、ハインとならきっと凍えないから平気かな」
「…アルの世界は今度こそ、本当に俺だけになってしまうぞ」
「いいよ。大切なものを全部捨てて、苦痛を抱えながら、それでもハインと一緒なら幸せだから」

きっと、絶対に、幸せだから。

そう囁く鳶色の瞳の中に、自分が映っていることに歓喜が込み上げてくる。
生半可なものではない。
激痛だ。
呼吸ができなくなるほどの疼痛を伴う幸福感が、細胞を満たしていく。

「…あぁ、幸せだ。アル、俺の最愛…」

アルフレードの身体を抱きしめる。
いや、縋るように、抱きつく。

甘え方をようやく覚えたばかりのこの青年は、自分を甘やかすことだけは随分と上手い。
その甘さに、優しさに、寛容さに、一体どれほど救われてきたことだろう。
伝わる温もりに身を委ねれば、神経が凪いでいくのが分かる。
背負ったものの重さは変わらない。
下ろすこともできない。

だが、両肩に圧し掛かっていたものが確かに軽くなっていく。
責任も覚悟も、そこに付随する重責も何ひとつ変わらないというのに。
心が。
陽だまりに包まれた心が。
癒されていく。

「少し眠ろうか。疲れたでしょう?」
「今は、アルを離したくない」
「こうして、抱きしめていてあげるよ。夢の中でも、絶対に離さない」

大天使ラファエルの翼は、人間に癒しを与えるという。
果敢に戦うことを厭わない炎の剣を携え、人間を護る美しい天使。
この醜悪な世界には美しい景色もあることを、酷薄な人間にも優しがあることを、残酷な現実にも希望はあることを知っている、心の綺麗な存在。
穢れたものでも真っ直ぐに見つめることのできるその鳶色の瞳を見つめ返してから、ゆっくりと瞳を閉じる。
瞼の裏に、アルフレードの微笑みが焼き付いている。

「目が覚めたら、」
「うん?」
「余すところなく、キスがしたい」

いつになく熱烈なハインリヒの言葉にアルフレードは一瞬瞠目した後、ふわりと笑みを咲かせた。
そして、艶やか黒炭色の髪に唇を落とす。
髪に落とすキスの意味は、思慕。

「首にも、手にも、額にも、頬にも…キスして」
「唇にも」
「もちろん。だから、今は少し眠ろう」

極限まで張りつめさせた神経を緩める方法も忘れ、心は悲鳴を上げることも放棄した。
安らぎを求める欲求など、とうに枯渇していた。
だが、今。
身体から力が抜け、神経が凪いでく。
心が鎮まっていく。
溢れる愛しさの痛みすらも、愛しい。
温もりに包まれ、安堵感に満たされ、これ以上にないほどに充ち満ち足りる。

「おやすみ、オレの最愛の人。そして、オレの愛する獰猛な獣」

躊躇なく晒されたハインリヒの無防備な姿に、喉の奥が熱くなる。
彼が目を覚ましたら、この泣きたいほどの充足感と幸福感をどうやって伝えよう。
きっと、言葉だけでは足りない。
それならば、キスを。
髪に、額に、瞼に、頬に、首に、そして、唇に。
ありったけの愛情を込めて、口付けを贈ろう、と思う。

「Ti amo,Heinrich」

哀しみは簡単に消えるものではないからこそ、辛い。
狂気を抱えて生きていくことは、苦しい。
だが、それを共有できる存在が居るということは、嬉しい。
だから、きっともっと靭くなれる。
護りたいものを護れるだけの靭さを、きっと手に入れられる。

このとこしえに優しい最愛の人を護れますように。
勇気を失うことなく戦えますように。
彼のために、自分の存在意義を護るために。

そんな誓いを胸に、アルフレードはハインリヒの頬に貼られたガーゼの上にそっと唇を落とした。

  誰ガ為デハ無ク己ガ為ニ、戦ウ意味ヲ


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おまけ


***
ハインは「アルのため」とは言わない。「お前のために戦う」とは言わない。
「お前を護りたい」というのも、実は自分自身のためだったりする。
失うことに耐えられない自覚があるのは、実は彼の方だったりする。

ダイトに殴られるハインが書けたから、余は満足じゃ。

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