Zielbahnhof

ふと、眠っていた意識が鮮明に覚醒する。
元から眠りが深いわけではないが、こうして妙な肌寒さを感じて目覚めるときがあるのだ。
いや、目覚めるようになった、というべきか。

「…またか……」

悪夢に魘されたわけでも、深夜でも遠慮なく鳴るモバイルの音に叩き起こされたわけでもなく。
何かに意識を鷲掴みにされ、そのまま乱暴に引きずり起こされるかのような感覚。
そこに、自分とは別の何かの意識を感じるのは気のせいだろうか、とハインリヒは視線を自分の左側に落とす。
そこにあるはずの姿はなく、触れたシーツは冷たかった。

(起こすならもっと早く起こせよ)

誰か、ではなく。
確かに感じる何かに、内心で悪態を1つ落とす。

シーツがこれほど冷える前に。
そこにあった温もりがなくなる前に。
何かが自分を起こしているのなら、もっと早く、と。

「……」

サイドチェストの上にある置き時計の針が指し示しているのは、街も眠る頃。
真の静寂とは耳鳴りがするものなのだと知ったのは、いつだったか。
そんなことを考えながら、ハインリヒはまだ自分の体温が残るベッドに別れを告げた。

しん、と静まっていた寝室に、素肌の上を滑るシーツが擦れ合う微かな音が落ちる。

「こういうところだけは、いつまで経っても変わらないな…」

独り言が、ため息に溶け込む。
だが、それは決して冷たい音ではなく。
“呆れ”というにはあまりに温かい音で。
かつての彼を知る者が聞けば、その穏やかさに目を瞠っただろう。

しかし、今この場には彼しかおらず。
ハインリヒは脱ぎ散らかしたままになっていたシャツを羽織り、寝室のドアノブを回した。
彼のものより一回りは小さいカーディガンを片手に。

「……相変わらず、ここか…」

長い廊下の先にあるのは、明りも空調も付いていない静かなリビング。
かつては、それが当たり前だった。
生活の音も匂いもない、無機質な空間がただただそこに在るだけだった。
それが、当たり前だったのだ。

たったひとりの青年と出逢うまでは。

「アル」

その青年の名前すら知らなかった頃、この部屋に日当たりの良いバルコニーがあることさえ知らなかった。
いや、知ろうともしなかったというべきか。
それが、今ではどうだろう。
裸足でも過ごしやすいように、と人工芝を敷き詰めたそこにはガーデンテーブルと家庭菜園のプランターが並んでいる。
太陽が昇れば、その光を燦々と浴びる瑞々しい緑の世界が広がることだろう。

だが、今は下弦の白い月の光が満ちている。
どこか寒々しく、どこか冴え冴えしいその空間。
そこに、青年は居た。
暗く遠い空を、何の表情も浮かべずに見つめながら。

「……アル、」

その横顔は、はっと息を飲むほど嫣然としたもので。
しかし、同時に、あまりにも儚いもので。
月の裏側を。
あるいは、その遥か先さえも彼の双眸には映っているのではないだろうかと思ってしまうほど、真っ直ぐに空を見つめている。

「アルフレード、」

心臓が、締め付けられる。
何が辛いのか。
何が苦しいのか。
何が哀しいのか。
内心でそう問いかけながら、人工芝を踏む。

その足音にも、背後から近付く気配にも気付いていないのか。
それとも、青年の意識はここではないどこかにあるのか。
無性に、不安が押し迫ってくる。
瞬きをした瞬間に彼が目の前から消えてしまうのではないか、という不安が。

「アルフレード」

そんな不安を自分自身から隠すように、ハインリヒは持っていたカーディガンを彼の頭から被せた。
そうして、「彼はここに居る」と確かめるように、強く抱きしめる。

「こんな時間に何をしているんだ、アル」
「……はいん?」
「風邪を引くぞ」

目には見えない何者かの手に奪われないように彼を腕の中に捕えれば、不意に、彼の細い指が羽織っただけのシャツを掴んでくる。
その指先が微かに震えていたのは、気のせいではない。

「どうした?」
「うん…」
「何があった?」
「…何も」
「アル、」

微かに震えている肩を抱き寄せ、冷え切っている彼の痩身に己の体温が移るように包み込む。
まるで、迷子になってしまった幼子がようやく母親と再会したときのように。
必死に縋りついてくる姿に、再度胸が痛んだ。
何が彼を不安にしているのか、彼は何に哀しんでいるのか。
分からないもどかしさが歯痒く、苛立たしい。

「アル、どうしたんだ?」
「…ほし、は…」
「ん?」
「星は…」

蚊の羽音よりも小さい声に、耳をそば立たせる。

「あそこで輝いている星は…もしかしたら、もう存在しないかもしれないんだ」
「星?」
「そう、あの星…」

星というものは、とても遠いところに存在するもので。
この小さな惑星にその輝きが届くまでに、何百年、何千年もかかってしまう。
だから、今あの漆黒の空で輝いている星たちは、もうそこに存在しないものかもしれないんだ。

消え入りそうな声でそう続けたアルフレードの震える指先は、ひどく冷たく。
ハインリヒはその細い身体を、いっそう強く抱きしめる。

「1光年も離れている星に車で行こうと思うと、570万年以上かかってしまうほど遠いんだって」

天文学単位の1光年は、約9兆4608億キロ。
光が1秒間に進む距離は、約30万キロ。
星がどれほど力強く輝いたとしても、地上にいるオレたちに見えるようになるには何百年もかかってしまう。
そして何百年も前に輝いていた星は、その頃にはもう存在しないものになっているかもしれない。

そう語るアルフレードの声音は、ひどく寂しげで。
夜空を見上げている端整な容貌は儚く、今にも消えてしまいそうなほど危うげで。
無意識のうちに、彼を抱きしめる腕に力が入っていく。

「アル…」
「今ここに、確かに見つめているはずなのに…」
「……」
「オレはその光を確かに見ているのに…その星は、もう存在していないかもしれないんだ」

決して掴むことのできない星に縋るように手を伸ばすアルフレードのそれを掴み、半ば無理矢理に視線を合わせる。
眉根を寄せ、食い締められていた彼の唇をなぞるように指で触れる。

「アル、何が不安なんだ。何が怖い?」

ぴくりと肩が小さく跳ねたことには気付かぬ振りをして、揺れる鳶色の瞳をじっと見つめる。
人工的に作ることのできないその美しい虹彩の輝きは、まさしく星のように煌めいている。

「アル、」
「……」
「アルフレード」

その輝きが、彼の瞳からひとつ零れる。
まるで、星が落ちるように。

「……はい、ん」

幼さを残す頬を星の欠片が落ち、ハインリヒの指先で弾けた。

「…ハインは、ちゃんと…ここに居る?」

あの星たちは確かにそこに光っているのに、もう居ないかもしれない。
そこに、光っているのに。
確かに見えるのに。
存在はあまりにも不確かで、曖昧で。

「オレは、“此処”に居る?」

流星群のように次から次へと流れ落ちて行くアルフレードの涙が、ハインリヒの指先を濡らしていく。
あぁ、彼は何て哀しい泣き方をするのだろう、と思う。
胸の内に押し込め、限界まで耐えていたものが溢れ、そうしてようやく零れる涙。
それは、独りで泣くことに慣れてしまった泣き方だ。

「アル、俺はここに居る。今、お前に触れているのは俺だ」
「…うん」
「アルは“此処”に居る」

それでもなお、不確かさに怯えるというのなら。
何度でも名前を呼ぼう。
ここに居るのだと、繰り返そう。
孤独に慣れてしまった彼に、もう孤独ではないのだ、と。

「今夜は手を繋いで眠ろう。あぁ、抱きしめ合って眠るのもいいな」
「…うん」
「お前がうんざりするほど、名前を呼んでやる」
「うん」
「アルはここに居る。俺は、ここに居る」
「うん…うん、ハインが居る」

涙で濡れた頬に微かに笑みが浮かぶ。
あぁ、綺麗だと思う。
血で穢れようと、決して純潔さを失わない美しさ。
醜さも不条理も不平等も理不尽さも全て受け止め、許容し、正論の暴力を前に歯向かうことのできる靭さを確かに感じる。

彼は決して強くはない。
深い傷の痛みに蹲ることもある。
こうして胸を潰すような恐怖と不安に涙を流すこともある。
だが、ただ護られるだけの存在ではない。
誰かを護るために剣を抜ける靭さを持っている。
華奢な背中に、細い手の温もりに、それを感じたのは一度や二度ではない。

「今はまだ、不安になってもいい」
「え?」
「お前が自分を見失いそうになったときは、いつだって俺が見つけてやる」
「……」
「だが、いつか…」

涙で濡れたアルフレードの頬を拭う。
白い陶器のような滑らかな肌に薄らと血色が戻り、匂い立つような妖艶さが星明りに晒される。

「いつか、アルが自分自身を見失えなくなるほど、俺のことをその魂に焼き付けろ」
「…ハイン…」
「星は古来、旅人たちの道標。なら、俺がアルにとってそうであれるようにいつだってここにいてやる」

それを傲慢と言うのだろう。
だが、自分とは乖離している別の何かが、満足そうに微笑んだ気がした。

「“此処”にいる」
「…うん、“此処”にいて」

互いの温もりを確かめ合うように。
互いの鼓動を確かめ合うように。
互いの存在を確かめ合うように。
今はもうそこには居ないかもしれない星々の下で、2人は長い口付けを交わした。

  此処は、何億光年の旅路の終着駅


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“自分”という存在も実は不確かなもので、「自分はここに居る」と証明するのは難しい。
でも、そこに“他者”が介在することで、その不確かさに確信が生まれる。
その“他者”も不確かな存在だけれど、そうやって互いに互いの存在を認め合うことで成り立っている部分があると思う。
という哲学的な何かを文章にする文才が欲しい。どこかに落ちていないかな。
コス〇コとかで大袋に入って売っていないかな。

は!そういえば、これで無事に[ドイツ語]お題をクリアです!
な、長かった…っ。もう終わらないかと思った…本当に、ゴールが見えなくて…。
何とか終わることが出来ました。最後までお付き合いありがとうございます。
さーて、次のお題を探しに行こう!(←懲りないヤツ)

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